5月3日、正確には5月4日の朝方にJOHNNY OSBOURNEに話を聞く機会に恵まれました。JOHNNY OSBOURNEはMIGHTY CROWNが前日の昼から開催したビッグ・イヴェント『SOUND CITY 2013』の深夜編『BACK TO THE HARDCORE』に出演、そのショーの直後に今回の来日ツアーを実行していた旧知のCHINA MANから突然に「インタヴューしないか?」と誘われて楽屋で話を聞くことができました。ショーの後で少し疲れた様子でしたけど色々と貴重な話をしてくれました。
◆写真を撮りながら話を聞いてもいいですか?
ん? ああ・・、いいよ。
◆久しぶりの日本ですが、いかがですか?
いい感じだ。15年振りのハズだけど、前回の来日も昨日のコトのような気分さ。そんなに時間が経っているようには思ってないし、今回も前回と同じようにいい感じだ。
◆最近はニューヨークに住んでいるんですよね?
そうだ。女がいるからな。10才の子供もいるんだ。家族のコトもあってニューヨークにいるんだ。ああ、そりゃ、ジャマイカが恋しくなる時もあるさ。たまに帰ったりもするさ。アーティストってのは船乗りみたいなもんでさ、あちこちの港に行くし、あちこちの港に女がいてさ、あちこちを常に旅するんだ。ジャマイカが良いに決まってるけどさ、その旅を楽しんでいるのさ。家族もいるしな。
◆もう随分とそうした生活をされていますね?
そうだな、40年以上だ。最初のレコーディング? いや、〈STUDIO ONE〉の前に〈TECHNIQUES〉だ。プロデューサーのWINSTON RILEYのところでコーラス・グループとして録ってた。〈STUDIO ONE〉の「All I Have Is Love」がデビュー曲ではないさ。他でも録ってたよ。全部オーディションを受けてた。当時はみんなそうさ。
◆〈TECHNIQUES〉からのアルバム『COME BACK DARLING』は・・、
(遮るように)あれは69年。エア・ジャマイカのタラップに上っている写真のジャケのやつな。あれはエア・ジャマイカの初就航便だよ。ホントだよ、そのハズだ。あのアルバムが完成した日にスタジオから空港に行って、そのままカナダのトロントに行ったんだよ。そうだよ、アルバムが完成した日にジャマイカを離れたんだ。
◆あのタラップを上る写真がジャケットに使われるのはリリースされてしばらくするまで知らなかった、って言われていますけどホントですか?
いや、そんなことない、だって俺がジャケット用に撮らしたんだから。俺がいなくなったらジャケットに使う写真がないだろうから、いる間に撮ってもらおうと思ってさ。エア・ジャマイカの初就航便ってのも良い機会だと思ったしさ、それで「初就航」って覚えてるんだ。
◆そのままカナダで長く暮らしますが・・、
(遮るように)10年。79年にジャマイカに戻るまでカナダにいた。ジャマイカを離れた理由?、それはお袋だよ。あの時期のジャマイカは政治的に不安定で、色々と右や左と揺れていて、お袋が家族を案じて移住することにしたんだ。家族がそうやって大変な時に力にならないとダメだろ? だから一緒に行くことにしたんだ。トロントでも歌ってはいたよ、グループとか組んだりしてな。
◆活動を諦めたりはしなかったんですね?
しない、しない。歌うことを諦めたり、止めようとしたことはない。
◆10年振りにジャマイカに帰国して、シーンに復帰するのは大変ではなかったですか? 色々と変化も大きかったと思いますし。
大変だって言っても仕方ないだろ。時代や状況が変わったなら、自分がそれに合わせられるように変わればいいのさ。そうするしかないな、やりたいなら。まぁ、元々歌ってたし、ヒットもあったし、カナダに行ってた間も俺の曲は聴かれ続けていたし、名前も知れられていたから、そのまま当てはまらないかもしれないけどな。そうだな、プロデューサー達も俺を分かっていてくれたから、いい感じで復帰できたな。
◆復帰して〈STUDIO ONE〉からすぐに『TRUTHS AND RIGHTS』が出て、80年代に突入するとHENRY "JUNJO" LAWSの〈VOLCANO〉、あとKING JAMMYの〈JAMMY'S〉とダンスホール時代を勝ち残っていますが、常に時代を代表するプロデューサー達と組んできましたね。
相性だな。みんな癖があるけどさ、みんな真剣でね。音楽を作ることに本気なんだ。そういう部分が自分と一緒でね、そうした相性が良かったんだ。
◆先程のショーを観て、改めてヒット曲が多いのと、シンガーとしてもですが、メロディ・メイカーとしても突出した才能を持たれていると思ったのですが、曲はどうやって作っているんですか?
うーん、どうやって・・、そりゃ、頭に浮かぶのさ。強いて言えば神様が与えてくれるんだろうな。リディムを聴いて浮かぶこともそりゃあるし、周りを見ていて思い付くコトもあるだろうけど、俺は曲とか歌詞を書き留めるタイプじゃないんだ。いるだろ? なんか一生懸命紙とかに書いてるヤツも。俺はそういうのじゃないな。書いたことなんて一度もないさ。頭に浮かぶんだ。言葉もメロディも。インスピレーション?、そう言うヤツもいるだろうな。
◆ずっと続けられている秘訣ってなんです?
愛だよ。自分が好きなものにどれだけ愛情を注げるかだよ。愛情を注がないと相手も愛を与えてはくれないさ。俺が音楽に愛を注ぐから音楽も俺に愛を注いでくれるのさ。なんでもそうさ。恋愛も。うまくいかないヤツ、続かないヤツは愛がない。だから愛も与えられない。そういうもんさ。なんでもそうさ。
◆あと先程のショーを観ていて、何十年も前に書いたリリックが現在でも有効だというコトに気付きました。全然古くないと言うか・・、
(遮るように)そりゃ、そうやって曲を作ってるからさ。何年も自分が歌い続けられる歌詞を書いているし、いつの時代にも人に届くメッセージを込めているからさ。歌詞にはメッセージがないとダメだね。それを歌うことに使命と責任を持たなくてはダメだね。最近はそんなコトを気にしてもいないヤツが多いみたいだけど、自分がずっと背負っていける曲を作ることが基本だったよ。いいか、昔はオーディションを受けて通ると、一発でレコーディングをやり遂げないといけなかったんだ。ミュージシャンも生身の人間で、みんな真剣勝負さ。それに相応しい曲や歌詞でないとオーディションも通らなかったし、ミュージシャンも演奏してくれなかった。時間も限られていたし、自分の後ろには並んでいるヤツもいたしな。だから、めちゃくちゃ練習して挑んだし、曲も歌詞も熟考したよ。一発で決められるようにな。そうやって真剣に向き合うと自分が歌ったり、歌うことに対しても真剣に考えるし、その使命や責任も自然と身に付いていったんもんさ。とにかく練習ばっかりしていた。その練習で気付くことも身に付いたことも多いんだ。スタジオに入ってから考えたり、コンピューター相手だから、何度でもやり直しも、曲を切ったり貼ったりして作ればいい、って時代ではなかったんだ。わかるか?
◆現在のシーンとは違いますね・・、
コンピューターが悪いって言ってるんじゃないよ。自分達が目指すものをコンピューターを利用してカタチにすることは良いさ。ただ、コンピューターで出来るコトを前提に自分達のやるコトを決めるのはダメだね。使うのではなくて使われるのは逆さまだ。あと、やはり練習しないとな。コンピューターに声まで直してもらってたりしてはな。とにかく練習だよ。それしかない。それをプロデューサーやミュージシャンとか色々な人達に聴いてもらって意見もしてもらうことだな。コンピューターは何も意見なんて言わないしな。人が歌って人に聴かせる曲は人が作るんだな、そういうのは現在は足らなくなっているな。それこそ40年以上人が聴き続けれる、歌い続けられるような曲を作ろうとする気持ちみたいなのもないかな。
◆もしそうなら残念ですね・・、
まぁな。でもな、いいか、お前に教えてやるよ。何かが始まったら、それがどう動くか知ってるか? いいか、(と、テーブルの上に一本だけ指を置いて、それをゆっくりと動かして円を描いて行く)、こうやって、何かを起点に何かが始まると、こうやって円になって進んで行くんだ。そうやって、いつかは一周して最初の起点に戻って来るんだ。地球も丸いだろ、船旅していたら、いつかは元の港に戻ってくるし、そういうもんだ。
◆ああ、だからレゲエもいつかは元のカタチに戻ってくると・・、
まぁな。ただな、円の大きさってのは、広がりも意味しているんだ。小さな円はすぐに一周できるけど、大きな円ってのはなかなか一周できないんだ。ダンスホールとかレゲエってのは現在は大きな円になっていると思うんだ。ジャマイカだけのものではなくなっているし、ジャマイカも色々な影響を受けているし、その円はどんどん広がっているんだ。最近はさ、なんて呼ぶのか知らないけど、レゲエを高速でやる音楽とかもあったり、なんかジャマイカでもソカみたいなビートでやるのが増えていてアレだけどさ、とにかく取り巻く円が大きくなっているんだ。いつかは一周して起点に戻ってくるとは思うよ、始まった以上はさ。ただ、それがいつに戻ってくるかは知らないな。
◆そうした中でご自身はどう活動したいと思っていますか?
続けるだけ。俺の歌を。よく「オールド・スクール」「ニュー・スクール」とか言うだろ? でも、俺は「トゥルー・スクール」。何年経っても残り続ける本物の歌を歌っているんだ。時代や何かで区切られたりするものを歌ってないよ。この日本ツアーが終ったら、今度はカリブのベリーズかな、とにかくそうやって俺の本物の歌を求めている人が待っているところで本物の歌を歌い続けるのさ。ああ、そうやって旅を続けるよ。リアルな意味でも、人生って意味でもね。
◆新作は予定していますか?
相手がいないね。相性の良いプロデューサーがね。さっき昔の人達の話をしたけど、そうした真剣に音楽に向き合うプロデューサーがいないな。尊敬し合ったり、認め合ったりできないで曲や作品なんて録れないし、少なくとも俺は誰でもいいから録るってタイプではないのさ。レコーディングもそうだし、人や恋愛でもそうさ。そういう基本の関係がないなら録らない。わかるか?
◆はい。
よし、もう十分話しただろ。何時だ? 5時か? 何時までダンスは続くんだ? もうホテルに帰るぞ。えっ? いや、今すぐに出なくてもいいけど、もう少ししたらホテルに帰るぞ。俺の荷物はどこだ? ああ、そこか。いや、まだ取らないでいい。
◆あの、ステージでも一度もドリンクを飲んでいませんでしたけど、このお話の間も何も飲みませんよね。歌声も以前のまんまですけど・・、
いや、だから言っただろ、練習だって。練習しかないって。そうやって喉は鍛えてあるんだよ。練習も自分の愛情の表れなんだけどさ。って、もういいか? もうお前とは十分話しただろ。もう終わりだ。またにしよう。
INTERVIEW & TEXTED BY: 八幡浩司(24x7 RECORDS, INC.)
@横浜BAY HALL / 2013年5月4日早朝
Special Thanks to MIGHTY CROWN ENTERTAINMENT / CHINA MAN
60年代より活躍し続けるレゲエを代表するシンガー。10代後半からコーラス・グループのWILD CATSの一員として活動を開始してソロ・シンガーに転身。〈STUDIO ONE〉の「All I Have Is Love」、〈TECHNIQUES〉からのデビュー・アルバム『COME BACK DARLING』を69年にヒットさせるもカナダに移住。79年にジャマイカに帰還して、80年には〈STUDIO ONE〉から傑作『TRUTH & RIGHTS』をリリース。80年代は〈VOLCANO〉より「Yo Yo」「Ice Cream Lover」「Give A Little Love」「Never Stop Fighting」、〈JAMMY'S〉より「Buddy Bye」「Fally Ranking」「Water Pumping」の他を数多くのビッグ・ヒットを量産。「No Sound Like We」「In The Area」「No Ice Cream Sound」他のダンスの現場に直結したヒットも多く、「Rub-A-Dub Master/Solider」としての人気を確立。90年代までリリースは大量。00年代以降は拠点をニューヨークに移して活動を続けている。
MOST WANTED - BEST ALBUM GREENSLEEVES / GREL615 / 2008年 Release 80年代のダンスホール・ヒットを15曲収録。廉価価格で「入門編」としても最適。iTunes他配信でも発売中。 |
MR. BUDY BYE - BEST ALBUM VP RECORDS / VP1446 / 1995年 Release 80年代の〈JAMMY'S〉からのヒットを19曲収録。CDは品薄・廃盤でiTunes他配信で発売中。 |
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REGGAE LEGEND - 4CD BOX SET GREENSLEEVES / GRE2080 / 2010年Release 名作4タイトルを全て紙ジャケットで復刻、ハード・ケースに収めたコレクターズ・アイテム。iTunes他配信販売も有。 |
FALLY LOVER - LP GREENSLEEVES / GREL12 / 2013年再発 81年に〈VOLCANO〉よりリリースされた代表作がLPで限定再発中。 |