僕にとっては、カタログの8番、AUGUSTUS PABLOの『ORIGINAL ROCKERS』。そう、初めてのGREENSLEEVES盤。僕が意識的にレゲエを聴くようになった70年代末から80年代初頭、レゲエを数多く手がけていたISLAND RECORDSの音源を配給していた東芝EMIがレゲエのアルバムをリリースしていたし、オーディオ会社トリオが所有していたレコード会社からは、英TROJAN RECORDSの作品が配給されていた。ジャパン・レコードからはROUGH TRADE経由のレゲエのアルバムもあるなど、チョコチョコと国内盤でレゲエのリリースがあり、レゲエを買い始めた頃はそれらを買うことで満足感もあった。しかし、もう一歩レゲエの深みにハマり始めると、輸入盤に手を出すようになるわけだ。 今思うと、当時の輸入盤店のレゲエ・コーナーは、ジャマイカ盤もまったくなかったわけではないけれど、イギリス盤と米盤が主流だった。米ALLIGATOR RECORDSや米SHANACHIE RECORDSなどレゲエをリリースしているレーベル中で燦然と光り輝いていたのが、GREENSLEEVESの諸作品だった。でもそのころ、僕はGREENSLEEVESがイギリスのレーベルであるということを意識していたかというとそれほどでもない。当時はイギリス盤の値段が高くて、GREENSLEEVESのものもちょっとした値段がついていたように記憶する。レゲエを割りと多く扱っていたレコード店に入荷していたイギリスからの輸入盤は3000円を超えるものも少なくなかった。80年代に入ってからの一時期、GREENSLEEVESの作品に米盤でよく見られるシュリンクパックが施され、米VP RECORDSのシールが貼られて配給されたりしたことがあって、それらは価格が安かった…などと昔のことを思い出す。 僕が初めて買ったレゲエのCD。それもAUGUSTUS PABLOの『ORIGINAL ROCKERS』。CD自体は83、4年頃から徐々に生活の中に入ってきていたけれど、アナログ盤でレコードを買うということが日常化していた僕にとって、CDを普通に買うようになったのは87、8年頃だったように思う。うろ覚えだけど、渋谷のシスコがフリスコという名前のCD専門店をスタートさせる前にCDを取り扱う店舗を始めていて、そこで初めて買ったレゲエのCDが『ORIGINAL ROCKERS』だった。87、8年というと、CDが主流になってきていた時期だったけれど、レゲエはCDへの移行が著しく遅れており、まだまだレゲエのCDが少なかった時代だった。そんな時期にGREENSLEEVESは少しずつCDを出し始めていた。 僕らの時代、レゲエという音楽を好きになって行き詰まるのは、欲しい音源がなかなか手に入らないということだった。シングルもアルバムも比較的入手しやすい欧米のロックと違って、レゲエの作品は本当に入手が難しかった。イギリスの雑誌等に掲載されているレゲエ情報を見て、欲しい音源を探してもその音源、特にシングルを入手するのはなかなかの苦労だった。当時、ジャマイカ盤の7インチなんてそうそう目にかかることはなく、シングルといえばイギリス・プレスの12インチというのが定番。80年代を通じて、そんなイギリス・プレスの12インチですら入手できず、イギリスの配給会社のJET STARがヒット曲をコンパイルした『REGGAE HITS』のシリーズで音源を入手…なんてことも普通だったほどだ。そんな時代に、日本でも入手できる安定的に優れたアルバムやシングルの配給元というとGREENSLEEVESが筆頭だった。 GREENSLEEVESは、アイリッシュ系のイギリス人会計士、クリス・セジウィック(CHRIS SEDGWICK)が1975年に西ロンドンのウェストイーリングに開いたレコード店が母体となっている。会計士とレゲエ…。TROJAN RECORDSやその関連のB&CをISLAND RECORDSのクリス・ブラックウェル(CHRIS BLACKWELL)と運営したリー・ゴプタル(LEE GOPTHAL)も会計士からレゲエ業界に入ったというのもなにか関係があるようで面白いが、GREENSLEEVESが長きにわたって成功を収めた背景に会計士であるクリス・セジウィックがあることは後で触れる。 店名のGREENSLEEVESとは、有名なイギリスのフォークソングにちなんでいる。クリス・セジウィックが店を任せるために雇ったのがクリス・クラックネル(CHRIS CLACKNELL)だ。2人のクリスによるウェストイーリングのショップでは、最初はロックからポップスまで幅広く取り扱っていたそうだ。しかし、店の近くにジャマイカなど西インド諸島の大きなコミュニティがあったことや、レコード店の階上には大きなスピーカーを配したナイトクラブがあり、そこではレゲエやソウル・ミュージックが人気だったこともあってレコード店の主力はレゲエやソウルへと移っていく。 GREENSLEEVESのレコード・ショップは、ウェストイーリングで1年半ほどを過ごした後、シェファーズブッシュに移店し、レゲエに力を注ぎ、成功をおさめる。ジャマイカから輸入したレコードは直ぐによく売れた。しかし、売り切れたもっと売りたいレコードをジャマイカにバックオーダーかけても再入荷はほとんどみこめないといったような状況は彼らの不満を募らせる。そこで考えたのが、ジャマイカの音源のライセンスを受け、自身のレーベルからリリースするという新しいビジネスだ。これこそがレーベルとしてのGREENSLEEVESのスタートだ。 最初のシングル・リリースは、77年でイギリスのレゲエ・バンド、REGGAE REGULAR「Where Is Jah」とDR.ALIMANTADO「Born For A Purpose」の7インチ。最初の77、8年は7インチをリリースし、78年から12インチへのリリースへと移行していった。
CAPITAL LETTERS BARRINGTON LEVY JOHNNY OSBOURNE TOYAN RANKING JOE SIZZLA ELEPHANT MAN NICE UP THE DANCE UK BUBBLERS 1984-87 78年からはアルバムもリリース。記念すべき最初のアルバムは、7インチのカタログの2番でもあったDR.ALIMANTADOの音源を集めた『BEST DRESSED CHICKEN IN TOWN』(通称「赤パン」。ジャケット参照)。以降、RANKING JOEやJAH THOMASなど堅調にジャマイカのプロデューサーからのライセンス作品をリリースしていく。79年にはクリス・クラックネルがプロデュースしたイギリスのバンド、CAPITAL LETTERSをリリースするなど、活動の幅も広げるが、GREENSLEEVESが脚光を浴びるのは、〈VOLCANO〉を率いるHENRY "JUNJO" LAWESと蜜月関係を築き、BARRINGTON LEVY、JOHNNY OSBOURNE、TOYAN、EEK-A-MOUSE、MICHAEL PROPHET、YELLOWMAN…など、JUNJOの作品を立て続けにリリースしたことだった。JUNJOをはじめ、当時勢いのあった〈CHANNEL ONE〉、LINVAL THOMPSONといった売れっ子プロデューサーやレーベル、PRINCE JAMMYやSCIENTISTといったエンジニア、プロデューサーの作品をうまく捉えてリリースしたのもGREENSLEEVESがレゲエ・レーベルとしての評価を獲得するのに大きく貢献した。
さて、初期のGREENSLEEVESを語るにおいて欠くことのできないのは、印象的なイラストのジャケット群だ。このイラスト・ジャケットがこのレーベルのジャマイカっぽさを決定づけていたように思う。手がけたのはトニー・マクダーモット(TONY McDERMOTT)。カタログの2番、RANKING JOEの作品で既にマクダーモットはジャケット・イラストを手がけている。マクダーモットは、最近でもSIZZLAやELEPHANT MAN、ROOTS MANUVAのアルバムのイラスト・ジャケットを手がけているのでお馴染みだろう。GREENSLEEVESはイギリスのレーベルながら、マクダーモットは、レゲエのアルバム・デザインに関わる人物として、ジャマイカのリモニアス、バガ・ケース、ササフラスと共に「4巨頭」と呼びたいほどジャマイカを感じさせるものだ。 GREENSLEEVESは、84年にスタートさせた〈UK BUBBLERS〉レーベルから86年TIPPA IRIE「Hello Darling」が全英トップ30入りするヒット、またポップ・チャート入りこそ果たせなかったが、CLINT EASTWOOD & GENERAL SAINTの「Stop That Train」をシングル、アルバム共にヒットさせるなど80年代には自社制作でも成功した。 80年代半ば以降には、KING JAMMYが手がけた大ヒット・リズム[SLENG TENG]を配給、さらに80年代末にはAUGUSTS "GUSSIE" CLARKEの作品をリリースするようになり、GREGORY ISAACS「Rumors」、J.C. LODGE「Telephone Love」のリズムトラック=通称「テレフォン・トラック」というモンスター・ヒットを英国流通させるなどレゲエ史に残る大ヒットの配給に関わっていった。またSHAGGY「OH CAROLINA」のヒットに火をつけたのもGREENSLEEVESだったのもお馴染みかもしれない。 ここ日本では、90年代までは同じ内容のアルバムがVP RECORDSとGREENSLEEVESから違うジャケットでリリースされるということがよくあった。90年代の中頃までのVP RECORDSはアルバム・ジャケット・デザインも質が悪く、LPに使うジャケットをそのまま縮小してCDに使うようなことが平気で行われていたし、ジャケット・デザイン自体もGREENSLEEVES盤が垢抜けていて人気が高かったように思う。VP RECORDSがデザインやマーケティングに力を入れ、力をつけていくのはもう少し後のことだったから、90年代中頃まではGREENSLEEVESは優位だったといってよいだろう。90年代初頭までは白レーベルのイギリス産レゲエ12インチが普通に流通するなど、割といい加減なレゲエのレコード・ビジネスにあって、アルバム・アートワークに力を入れるだけでなく、12インチなどのシングルについてもきちんとしたレーベル・デザインと品質管理ができていたGREENSLEEVESの存在が際立つのは当然のことだった。
日本でレゲエを聴くというとき、特に90年代の中頃までは、GREENSLEEVESの世話にならずにレゲエ・ファンでいることはできなかった。GREENSLEEVESの立ち上げ当初は、ジャマイカの旧カタログなども含みながら、80年代に入るとジャマイカの人気のある作品やトレンドをダイレクトに伝えてくれたレーベルこそGREENSLEEVESだった。ジャマイカ盤には抜け落ちてしまいがちなアーティストやスタジオ、エンジニアなどのクレジットがGREENSLEEVES盤にはきちんと表記されていた。このことは、我々がレゲエに対する理解を深める上で重要な役割を果たした。懐かしい昔話をしているかのように思われるかもしれないが、GREENSLEEVESは過去の遺物なのではなく、今もなおレゲエという音楽の歩みや発展を我々に伝えてくれる存在だ。レゲエ史において重要な役割を果たしたGREENSLEEVESというレーベルを知ることはレゲエを知ることでもあり、GREENSLEEVES音源はレゲエの愉しみを教えてくれ続けているのだ。
藤川 毅 [ふじかわたけし]
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