はじめに

 前略

 本サイト連載コンテンツ「藤川毅/レゲエ虎の穴」は、これまで毎回24x7 RECORDSの関連作品の中からテーマとなる作品を選択して、その作品を軸に作品の背景/歴史等を藤川毅氏に出筆頂いてきました。

 連載を開始する際に自分が藤川氏に依頼したことは「作品だけでなく、レゲエの歴史を体系的に理解できる内容にして欲しい」ということだけでした。レゲエはそれぞれの時代で大きく変化していますが、全てがつながった音楽であって、過去を基として現在が進化・発展している音楽と考えているからです。

 「新譜」「再発」等、作品を分けることが習慣・習性となってる中で、また、同時にユーザーの皆さんの趣向もそれに合わせて細分化されている様に感じる中で、過去と現在がつながった一つの音楽としてレゲエを体系化して紹介するコンテンツを提示することで、世代を超えてより多くのユーザーがレゲエの歴史を理解し、過去と現在の互換性、それぞれの時代のレゲエの魅力を知り、「新譜」「再発」等に関係なく全てを一つとして様々に、より幅広く楽しめることにつながるコンテンツとなればと思いました。

 書かれる内容に関しては藤川氏に全てお任せしております。原稿量に関しても「原稿用紙にして10枚」と当初に伝えた記憶もありますが、これまで一度も守られることなく、現在では全て藤川氏に任せています。

 ただ、テーマとなる作品に関しては、藤川氏と自分で話し合って決めています。その際に自分が大切にしていることは「自分が読みたいもの」です。自社で運営するサイトですので、それは大切にしています。

 「今回はこの作品を軸にあのへんのコトを読んでみたいんっすけど」と伝えたり、藤川氏より「次回はあの作品でいこうと思う」と提案されると、「だったらあのへんのコトを読みたいっす」としたりして、テーマは決まっています。

 で、これまではほぼそうした流れで連載を続けてきましたが、今回はこれまでと違う「特別編」となります。これまでと一番違うのは24x7 RECORDS関連作品がテーマではなく、レゲエを体系的に伝えるものでもありません。テーマは「加藤学氏」です。

 加藤学氏のコトをどれだけの皆さんがご存知かは分かりません。ただ自分にとっては現在までレゲエに携わる仕事を続けさせて頂いてる中で、特別に大切で重要な先輩でした。「でした」と過去形で書くのは、加藤氏が3月に永眠されたからです。その加藤氏は藤川氏にとっても大切で重要な先輩でした。詳しくは藤川さんの原稿を確認頂くとして、加藤氏が務めた『レゲエ・マガジン』誌編集長の座を引き継いだのが藤川氏でした。

 自分は何かのカタチで加藤氏への感謝の意味も込めて追悼文を書きたいと思っていました。ずっと眠ったままの本サイトの別コンテンツ『JUST MY IMAGINATION』で書くことも考えました。でも、書けませんでした。もしかしたら加藤氏が亡くなった直後に起きた地震の影響もあったかもしれません。それでそれに代わって、本連載で加藤氏のコトを書くように藤川氏に求めました。自分に代わって藤川さんが書くことが適切で適任にも思いました。そしてに「特別編」として本連載のテーマとすることを求めました。

 藤川氏は自分からの「加藤氏への追悼文にして」というのを熟考して、加藤氏のことだけではなく、日本のレゲエ・ジャーナリズムの歴史を体系的に伝えるものとしてくれました。ただ、これまでと違って、藤川氏の私的な感情が溢れている部分もあります。それは藤川氏と加藤氏の関係を考えれば、抑えられなかった部分と思います。それをココで表すことが藤川氏にとって本望だったかどうかは分かりません。ただ、自分に代わって、また自分の想いも組んで今回書いて頂けたことに深く感謝しています。

 いつものような「レゲエ」な内容を求めている皆さんには申し訳なく思う部分もあります。「自社サイト」だからと押し切ろうとする自分の強欲と恥ずかしさは理解しています。それでもお付き合い頂ければ幸いです。

 早々

24x7 RECORDS/八幡浩司



藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE/追悼:加藤学〜日本のレゲエ・ジャーナリズムの歴史

 加藤学さんが2011年3月9日午前6時16分、亡くなった。加藤さんは1954年10月19日生まれだから、まだ56歳という若さだった。


 加藤さんは、『レゲエ・マガジン』、その前身である『レゲエ'82』『サウンド・システム』を創刊し、94年に僕に編集長を引き継ぐまで長年編集長を務めてきた人だ。僕にとっては前任の編集長であると同時に上司でもあった。

 宮城県仙台市の斎場で3月11日に通夜、翌12日に告別式とのことだったので、小生は、3月11日に鹿児島から飛行機で羽田に向かった。東京駅から東北新幹線に乗り換え、仙台に向かっている新幹線内、栃木県の矢板市付近であの地震に遭遇、新幹線で12時間閉じ込められた。その時の話は拙ブログでも見ていただくとして、仙台でおこなわれるはずだった通夜と告別式は、かの地震で延期を余儀なくされ、何もなければ5月3日に開催されたはずだ。

       

 加藤さんは、『レゲエ・マガジン』創刊前は、渋谷/道玄坂の百軒店(ひゃっけんだな)にあった飲み屋ブラック・ホークの店長だった。ブラック・ホークは古くは故・松平維秋という名物店長がいて、「ヒューマン・ソング」と称し、シンガー・ソングライターものやトラッドなどを中心にした音楽ファンには有名な店だった。 『スモール・タウン・トーク』というボビー・チャールズの曲名を冠したミニコミを発表していたのもブラック・ホークを拠点とした松平だった。

 松平が去った後、ブラック・ホークでかかる音楽は、パブ・ロックやニュー・ウェイヴ、そしてレゲエへと変わっていくのだが、その時代を支えたのが店長、加藤さんだった。そこには、レゲエが好きな人たちが夜な夜な集まり、レゲエ談義に花を咲かせていたのである。加藤さんは80年代初頭には、『レゲエ'82』 という雑誌を発行、この雑誌が後の『サウンド・システム』『レゲエ・マガジン』へとつながっていった。

 日本におけるレゲエ・ジャーナリズムなんてなかった時代。もちろん、一部の音楽雑誌でレゲエは取り上げられていたし、レゲエの書き手がいなかったわけではない。『レゲエ'82』以前では、ブルース・インターアクションズが『ザ・ブルース』別冊で『レゲエ・ブック』という本を出した・・、などということを思い出しているうちに、今回この連載では、加藤さんをきっかけに、日本におけるレゲエの一断面について書いてみたいと思った。そして、日本のレゲエ評論の初期の話でも出来ればと思う。多分に小生の個人史的な側面が見え隠れするかもしれないけれどご容赦ください。また、文中には小生の大先輩の名前が数多く登場するが敬称略で進めさせていただきたい。

藤川毅のレゲエ虎の穴

 『レゲエ・ブック』の背景には、先だって開催された79年4月のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの来日公演が強く影響しているのは疑いようがない。マーリーの来日によって日本にはレゲエ・ブームが到来したのだ。この頃、レゲエがトレンド、「レゲエこそが新しい音楽だ!」的な論調の記事がたくさん出た。70年代の初頭に「やがてレゲエが世界を席捲するだろう」と言ったジョン・レノンの発言もブームを下支えしていたかもしれない。作家の故・中上健次のマーリーへのインタヴューというのもこの来日時にとられ、80年1月に週刊プレイボーイで披露、後に中上の著作『アメリカ・アメリカ』に収められた。このときのインタビュー・テープは和歌山県新宮市の新宮市立図書館の中上健次資料室に保管されている。ちょっと聴いてみたいですよね。

レゲエ・ブック
ミュージック・マガジン
吉祥寺で輸入盤店ジョージアの記事 吉祥寺で輸入盤店ジョージアの記事

『ポパイ』の79年8月25日号「カリビアン感度一気に上昇!」特集 レゲエ・アルバム50選の記事 レゲエ・アルバム50選の記事

山名昇のスペシャルズとリコへのインタビュー記事 スペシャルズとリコへのインタビュー記事

 ボブ・マーリーの来日によってレゲエが注目されたのに違いはないが、ボブ・マーリーだけがレゲエではないという人たちがいたのも事実で、そういう流れから『レゲエ・ブック』は誕生したと理解している。実際に『レゲエ・ブック』には、マーリー来日直後の刊行にもかかわらず、マーリーの記事はほとんど無いのである。 ザ・ブルース臨時増刊号『レゲエ・ブック』の奥付には、「発行日1979年6月1日」とある。表紙は八木康夫(現ヤギヤスオ)が描いたトゥーツ・ヒバート。


 執筆者を見てみよう ー 後藤美孝、藤田正、中村とうよう、遠藤斗志也、永島修、高地明、日暮泰文、中河伸俊、山名昇・・といった当時のいわゆる『ザ・ブルース』〜『ミュージック・マガジン』系の執筆者で占められている。


 中村と藤田は『ミュージック・マガジン』。日暮、高地は『ザ・ブルース』で日暮はPヴァインの創始者だ。日暮は昨年、Pヴァインの創立から彼が辞めるまでを回想した『のめりこみ音楽起業』 という驚くほど面白い本を上梓している。興味のある方は是非。遠藤は、当時群馬大学の助手。現在は名古屋大学工学部の教授で、フェラ・クティ研究家としても名高い。巻頭は、テレサ野田のアルバムの録音のためにジャマイカのダイナミック・サウンドにて、78年11月に録音を体験してきた坂本龍一への後藤美孝によるインタヴューだ。後藤は、フリクションやフューを輩出したPASSレコードを主宰したことで知られるが、吉祥寺で輸入盤店ジョージアを経営していた。その店はイギリス経由で入荷したレゲエやニュー・ウェイヴのレコードがたくさんある店だった。小生は一度しか行ったことがないけれど。この『レゲエ・ブック』にもジョージアの広告が掲載されている。『レゲエ・ブック』の中身に言及することは本題ではないが、情報が少なかったことからくる誤解があったとはいえ、今読んでも通用するまっとうな本だ。


 これに続いて、まとまったレゲエに関する記事としては、雑誌『ポパイ』の79年8月25日号「カリビアン感度一気に上昇!」と言う特集があった。表紙からラスタ・カラーでなかなか気合いの入った特集だ。カリブの特集と言うことでヘイシャンやサルサ特集も組まれているけれど、レゲエに相当な分量が割かれ、C調な見出しとは対照的になかなか硬派な記事もある。「アルバム50選」など主要記事担当は山名昇。


 また79年8月にはステファン・デイヴィスとピーターサイモンの名著『レゲエ・ブラッドラインズ』の最初の日本版がクイック・フォックス社から発行されている。監修は後藤美孝、翻訳は山崎久美と中江昌彦。


 80年には『ミュージック・マガジン』で「レゲエからロックへと波及したダブ・サウンドの徹底研究」と題された特集が組まれた。そのときの執筆者は、坂本龍一、後藤美孝、大鷹俊一、遠藤斗志也という顔ぶれである。編集後記で中村とうようはこのように書いている。ー「ダブ特集のほうは、当誌はレゲエに関しては早くから注意を払ってきたし、ダブが何であるかについては編集部でもわかっているし、日頃つきあいの深い執筆者達にもその道のオーソリティが何人もいらっしゃるのだが、音響技術とか楽器とかハードウェア的なほうに関しては編集部全員ダメで、的確に解明した記事を作るのは無理だった。ただ、このダブ特集が、これまでパンク、ニュー・ウェイヴは熱心に聞いてもレゲエには暗かったという人たちに、ニュー・ウェイヴとパンクのかかわりの深さを認識していただくきっかけにでもなればいいと思う。」ー(『ミュージック・マガジン』80年5月号編集後記より一部引用)


 少し話は逸れるが、80年6月にスペシャルズが来日。そのときの山名昇のジェリー・ダマーズとリコへのインタヴューがミュージック・マガジン1980年8月号に掲載されている。このインタヴューは、僕に個人的に強い印象を与えたインタヴューでこのときのリコへのインタヴューで知ったことがたくさんある。ちなみに同号には藤田正による6ページに及ぶジャマイカ録音をしたペッカーの『ペッカー・パワー』の記事も掲載されている。ペッカーとオーガスタス・パブロの2ショット写真なども掲載されているのだ。


 また同号には高地明による映画『ロッカーズ』(オーバーヒート・コミュニケーション)の日本公開に先立つレビュー記事も掲載されている。オーバーヒートの石井志津男の最初期のレゲエ仕事だ。そういえば、石井がかつて 『オーバーヒート』という雑誌を出していたことは意外と知られていないので蛇足ながら記しておく。


 先に引用した中村とうようの文章からもわかるように、70〜80年代初頭、『ミュージック・マガジン』は、ほかの音楽誌がほとんど取り上げていなかったレゲエという音楽をコンスタントに取り上げていた雑誌だった。しかし、それはメジャー配給のレゲエ作品やイギリス経由のレゲエに寄っていた。ジャマイカからダイレクトな情報をなかなかとりにくい時代だったゆえに仕方がないことではあったけれど、当時のジャマイカは、まだ映画『ハーダー・ゼイ・カム』や『ロッカーズ』そしてブルーマウンテン・コーヒーの世界でしかなかったのである。


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藤川毅のレゲエ虎の穴/特別編 追悼:加藤学〜日本のレゲエ・ジャーナリズムの歴史

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