藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE

REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS
REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS
/ VP4163 / VP RECORDS / 2CD / IMPORTS / IN STORES
REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS

 さて、長かったエロル・トンプソン編も終了し、今回は新しいお題〈フェデラル〉です。これまたかなりの難題です。

 24×7 RECORDSの八幡さんは、ボクに連載を任せてくれている奇特な(w)とても良い人な訳ですが、その動機が「自分が読んでみたいもの」なのだそうです。八幡さんのようなレゲエ・リスナーのヴェテランが読みたいもの、ということは必然的にハードル高い訳ですね。というわけで、今回もとっても難しい課題です。

 VP RECORDSの『REGGAE ANTHOLOGY』シリーズより、〈フェデラル〉の2枚組編集盤『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』が出たのが今回〈フェデラル〉が選ばれた主な理由です。それにしても、 〈フェデラル〉に興味を持っているレゲエ・ファンが日本に何人いるでしょうか? 数年前に東京のレコード店ダブ・ストアさんがアーネスト・ラングリンなど〈フェデラル〉音源のCDを3枚ほど出しましたので、そこで興味を持ったファンもおられるかもしれませんね。実はボクも、これまで〈フェデラル〉関連の古いレコードを購入してはきましたが、〈フェデラル〉を時系列も含めひとまとめにして俯瞰するというようなことはあまりしてきませんでした。よって、今回、新鮮な気持ちで〈フェデラル〉に向かっている訳ですが、これまた奥が深いのですね。今回のVP RECORDSからの編集盤の解説は信頼のおけるスティーヴ・バロウさんが執筆なさっているのでボクなど出る幕ではないかもしれませんが、原稿をスタートすることにしましょう。


 今回のお話は、ジャマイカのポピュラー音楽の歴史のスタートというよりもレコード産業の最初期のことです。なんといってもサウンド・システムの存在はあったもののまだ数も少なければ、サウンド・システムの特徴というべきスペシャル(ダブ・プレート)も登場していない時代です。そもそも、レコード・プレイヤーはおろかラジオすらそれほど普及していなかった時代から今回の原稿はスタートします。

 〈フェデラル〉をスタートさせるきっかけになった機材の購入が1949年のことです。日本では戦後からまだそんなに時間も経過していない昭和24年頃の話です。この頃のレコードは、今のアナログ盤の回転数である33回転や45回転ではなく、78回転で回す通称SP盤(Standard Playingの略)というものでした。主にアセテートという素材でできたこの盤は、大きさはドーナツ盤7インチとLPの12インチの中間の10インチのものが主流でした。厚さは相当厚い上に、このSP盤は重くて割れやすい代物でした。昔のドラマを見ていると、蓄音機で音楽を聴くシーンが出てきますが、あのシーンで回されているレコードがSP盤です。ちなみにテレビなどでよく見かける大きなラッパみたいなのが上についた蓄音機は、ねじ巻き式だったりするわけですが、電気蓄音機のことを電蓄などと呼んだりします。今の若いファンにはほとんどなじみがない話かもしれません。今回の話は、上流階級の一部のお金持ちしかレコード・プレイヤーをもっていなかった時代から始まります。


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〈フェデラル〉創始者のケン・クーリー
L:〈フェデラル〉創始者のケン・クーリー

フェデラル

 〈フェデラル〉とは、ケネス・ロイド・クーリー(クォーリとの表記もある)が興したレーベル・グループ、配給会社、スタジオの総称と考えていただければよいでしょう。以下では、ケネスのことは、ケンもしくはケン・クーリーと表記することとします。〈フェデラル〉には系列のレーベルが数多く存在しましたから全貌を把握するのはなかなか難しいかもしれません。しかし、今回VP RECORDSから発売された『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』などが〈フェデラル〉の全貌をだいぶわかりやすくしてくれますね。この原稿では、この『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』からではなかなか伝わりにくい部分をクローズ・アップできれば、と思っています。


 〈フェデラル〉の創始者のケン・クーリーは、1917年キングストン生まれ。今作のスティーヴ・バロウの解説にはセント・メアリーの出身とありますが、ケネスに直接話を聞いたデイヴィッド・カッツによるとキングストン出身とのことなので、ボクはキングストン説を採用しておきます。ケンの父は、父母とともに12歳のときにジャマイカにきたレバノン生まれ。ケネスの母はキューバ人を両親にもつジャマイカ生まれ。この2人を両親に、ケネスは4人兄弟の唯一の男の子として生まれました。

 シリア(レバノン)系ジャマイカ人というのもなかなか珍しいように思えるかもしれませんが、後にジャマイカの首相となり〈WIRL〉というレーベルを運営していた米ハーヴァード大学出身のエドワード・シアガはレバノンとスコティッシュの血を引くシリア系ジャマイカ人だったりします。ちなみにシリアという言葉は、国としてのシリアではなく、今のシリア国の周辺であるレバノンなどを含む地域を指したりもしますので、ここの文中で使っているシリアとは広義のシリアと考えていただければ幸いです。ジャマイカには、中国系もインド系もたくさんいますし、日本と同じ島国なのに人種のるつぼ状態なのはとても面白いですね。そのあたりはジャマイカの歴史を振り返ると謎が解けたりしますので、ジャマイカの歴史について学んでみるといいかもしれません。さて、ケンの少年時代、父は、田舎で乾物屋を営み、キングストンでは家具店を経営していました。 ケンは家業(父の会社)に入る代わりに、当時のジャマイカで乾物業界のリーディング・カンパニーの位置を築き、さらには後にファミリーで高級ホテルをいくつも経営することとなるシリア系移民の息子、ジョセフ・イッサのもとで仕事をするようになります。そこで、働いた後、ケンは自身で 家具を扱う仕事をはじめ、キングストンのキングス・ロードに店を開きます。しかし、家具の仕事は肌に合わなかったようで、音楽ビジネスにも進出するようになるのです。

 そもそもは、1949年、ケンの父の病気治療につきそって訪れたマイアミの質屋で中古のディスク・カッティング・マシンを見つけたのがきっかけでした。そのカッティング・マシンは、直接アセテート盤に溝を刻み込む一度しか録音のできないものでした。最初は、自分の声を録音できます的なノヴェルティ商品として販売する為に利用し、商売にしていました。それから、徐々に音楽的な方向へと足を踏み出していきます。そしてケンは、ナイト・クラブに機材を持ち込み、バンド音楽の録音をしたりします。当時の演奏に参加していたアーネスト・ラングリンによると、間違えることもやり直しもできないので大変だったそうです。そりゃそうですよね、直接レコードに溝を刻み込んでいくのですから、やり直しもできないし、止めることもできない。途中で演奏をやめたら溝を刻んでいた盤は廃棄です。最初っから最後まで気を抜けないのですから。

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〈タイムズ・レコード〉のSPのレーベル面
〈タイムズ・レコード〉のSPのレーベル面

モッタのレーベルMRSのSPのレーベル面
スタンリー・モッタのレーベル〈MRS〉のSPのレーベル面

 ケンは、最初は自宅に設置していた中古の録音機材をキングス・ロードの自分の店に設置し、本格的な音楽制作に参入します。その際、それまでレコードの販売をお願いしていたタイムズ・ヴァラエティ・ストアのアレック・デューリーと共同で〈タイムズ・レコード〉を立ち上げました。最初の録音はロード・フレア(フリー)のもの。ここで〈タイムズ・レコード〉のSPのレーベル面を見ていただきましょう。センター・ホールの上に「Made in England」と記されています。ジャマイカ録音でジャマイカのレーベルの作品なのに「Made in England」とはこれいかに? それは、マスター音源をロンドンのデッカ・レコードに送り、プレス依頼していたからなのです。当時のジャマイカではスタンパー(レコードをプレスするときの型)を作ることができなかったのです。だから、海外の工場にお願いするしかなかったんですね。一度っきりしか録音することができないアセテート盤に録音したものを、 イギリスやアメリカに送り、スタンパーを作ってもらい、それをプレスしていたわけです。

 先にも書いたようにSP盤、アセテート盤は非常に割れやすいものでしたから、マスターを海外に送る際にはいろいろとトラブルがあったようです。繰り返し録音できるテープレコーダーがジャマイカにはなかった時代の話ですから、一回しか録音できないアセテート盤は唯一のマスターでした。ですからこれをレコード・プレス用に海外に送り、それが割れてしまうとその録音は一生日の目を見ることはなかったのです。先ほどのアーネスト・ラングリンの証言もリアルさがましますよね? 同時期のスタンリー・モッタのレーベルでも同様のことがおこなわれていました。モッタの〈MRS〉のこの時期のレコードはイギリス・プレスです。モッタのSP盤も載っけておきましょう。こちらにもしっかりと「Made in England」と書いてありますね。ジャマイカのレコードは粗悪だという人が多くありますし、実際それを否定することはできないようなレコードもこれまでたくさん見てきましたが、一部の50年代のSP盤のクオリティが高いのは、イギリス製だったからなのです。

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〈カリプソ〉のレーベル面
〈カリプソ〉のSPのレーベル面

マグナヴォックスのテープ・レコーダーMagnecorder PT6シリーズ
マグナヴォックスのテープ・レコーダーMagnecorder PT6シリーズ

エンジニアのグッドール
グッドール

『CARIBBEAN JOYRIDE』のジャマイカ盤
『CARIBBEAN JOYRIDE』のジャマイカ盤。右上のシールに注目。

『CARIBBEAN JOYRIDE』のジャマイカ盤
CEDRIC "IM" BROOKS & THE DIVINE LIGHT / FROM MENTO TO REGGAE TO THIRD WORLD MUSIC
/ VP4118 / VPRECORDS / IMPORTS

フェデラル

 そして、1954年、ケンは、商圏をカリブ域に拡大しようとしていたアメリカのレコード会社のジャマイカ進出の流れで、米マーキュリー社と契約し、同社の製品をライセンスしジャマイカで販売するビジネスをスタートさせています。そのときのケンの社名は、レコーズ・リミテッド社。レコーズ・リミテッド社は、米マーキュリー社の音源をSP盤化し、家具店の近所だったタイムズ・ヴァラエティ・ストアで販売を始めました。ケンは、この頃までには、販売するレコードを作るためのプレス機を導入したわけですね。この時期のケンの出したSP盤をみてみましょう。〈カリプソ〉というレーベルです。そこには、「Made in England」の記述はありません。レーベルの下部には大きく「RECORDS LTD. JAMAICA. B.W.I.」の記述があります。マスタリングは海外 (マイアミやイギリスなど)だったからかもしれませんが、少なくともプレスについてはジャマイカで行っていたという可能性をよみとれますね。でも、レコードをプレスするための元になるスタンパーを作ることはジャマイカではできなかったので、レコーズ・リミテッド社と契約していた米マーキュリーは金属製のプレス用のスタンパーを供給し、それを用いてケンはレコード盤をプレスしていたのです。

 また、この頃には、ケンは、音楽ビジネスの将来展望が見えたこともあり、カリフォルニアからレコードプレス機を購入するなど、レコード・プレス〜レコーディング機材も充実させています。その際に機材調達のアドヴァイザー役を担ったのがオーストラリア人のグレイム・グッドールです。ケネスは、グッドールの勧めに従い、マグナヴォックスのテープ・レコーダーMagnecorder PT6J-AHを購入しました。マグナヴォックスは日本ではなじみがありませんが、創業100年にもなろうとするアメリカの電機メーカーです。このように、機材を充実させていったケネスは、音楽ビジネスを本格化させていきます。

 グッドールについても触れておかなければならないでしょうが、彼について書くと、連載一回分ぐらいは軽くありますので、簡単に触れておきます。グッドールは、オーストラリア人の放送局エンジニアで、オーストラリアでラジオの仕事をした後、1954年にイギリスでテレビの仕事を学び、その後にラジオ・ジャマイカのエンジニアの仕事に応募し、ジャマイカへ移りました。57年末から58年にはオーストラリアに戻り仕事をしていた時期もありましたが、ジャマイカで数多くのエンジニア、制作に関わりました。グッドールが音楽業界に入るのは、ケンと知り合いになったことが大きいようです。ケンが家具店に機材を持ち込んで音楽の仕事を始めた頃は、手伝っていただけだったようですが、後の61年には、ケネスのフェデラル・スタジオにエンジニアとして入り、彼のパートナーになっています。

 そこで、グッドールは、実に数多くのスカ以前からスカ期の名演に至るまで数多くの名演の録音をエンジニアとして手がけています。ちなみに、ジャマイカで初めてステレオ録音をしたのもグッドールです。その作品は、バイロン・リー&ザ・ドラゴネイヤーズの『CARIBBEAN JOYRIDE』です。 『CARIBBEAN JOYRIDE』のジャマイカ盤にあえて「STEREO」のシールが貼ってあるのは、ステレオ録音であることを強調したいからなんですね。また、グッドールは、最初期のアイランド・レコードにも参加していました。アイランドのクリス・ブラックウェルとはオーストラリアのバンド、ザ・カリブスを通じて知り合ったようです。 66年にイギリスに戻ってからは、〈ドクター・バード〉〈ピラミッド〉〈RIO〉といったレーベルを立ち上げたことでも知られています。イギリスでのローレル・エイトキンの優れた作品もグッドールによるものがたくさんあります。

 余談ですが、先に少し触れたエドワード・シアガの〈WIRL〉のスタジオ・エンジニアもつとめたという記述がいくつかの文献で見ることができますが、それは誤りだそうです。グレアム・グッドール、あまり話題になることはないですが、ジャマイカ音楽に大きな影響を与えた人物の一人です。是非記憶の片隅にその名をとどめておいてください。グッドールとVP RECORDSとの関連でいうと、彼の〈ドクター・バード〉からの名盤『CEDRIC "IM" BROOKS & THE DIVINE LIGHT / FROM MENTO TO REGGAE TO THIRD WORLD MUSIC(DOCTOR BIRD001)』がVP RECORDSからCD化されています。これは、後のライト・オブ・サバにも通じるイム・ブルックスの大名盤ですので、是非聞いてみてください。


 さて、機材を充実させたケンは、サウンド・システム用の1枚もののアセテート・レコード(今でいうスペシャル/ダブ・プレート)をシステム・オーナーたちに販売するなるなど、サウンド・システム・オーナーとの関係を深めていきます。55、56年頃には、コクソン・ドッドもこのケンのスタジオで自身のシステム、ダウンビート用の録音を始めたといいます。ケネスのスタジオに先んじていたスタンリー・モッタのスタジオはメントの録音ばかりだったわけですが、ケンがサウンド・システム用のアセテート録音盤の販売を開始してから、システムでプレイさせるための非メント、非カリプソの録音がジャマイカで始まったわけです。

 このサウンド・システム用の録音は、一般向けの非カリプソ・レコードの販売へと広がりを見せるようになります。当時レコード・プレイヤーを持っているのはアップタウンのお金持ちでした。アップタウンのお金持ちは、ジャマイカの音楽には見向きもせず、アメリカなどから輸入される音楽こそ最高だと思っているような人たちが多かったのです。 そのような状況でしたから、レコードを売るには、アップタウンのお金持ちか、ジャマイカに観光に訪れる海外のお金持ち達をターゲットにする必要があったのですね。当時のジャマイカのレコードにことさら南国イメージを強調したものや異国情緒を演出したものが多いのは、明らかに観光客のお土産物としてのレコードを意識したものなのです。モッタはメントのレコードを制作していましたが、それらはものすごく売れたわけではなかったのです。モッタは、サウンド・システムを運営していた人ですから、当時のサウンド・システムに集まる人たちの好みはわかっていましたが、それらを商品化しても売れないという現実も知っていたのですね。なぜなら、サウンド・システムに集う人たちは貧しく、レコード・プレイヤーを持っていない層の人たちだったからです。しかしそれでも少しずつレコード・プレイヤーが普及し、自分たちに身近な音楽が商品化されるようになると、レコード購買層も徐々に広がり、その相乗効果でジャマイカの音楽マーケットは発展していったのです。

 その発展のきっかけとして、ケンがサウンド・システム・オーナー達と関係を深めたのは非常に重要なポイントでした。レゲエ評論家のデイヴィッド・カッツは、ジャマイカの身近なポピュラー音楽が製品化された転換点は1957年だったと指摘しています。それを象徴する作品こそが、57年にダダ・テワリが制作した「Aitkens Boogie」です。この曲は、ニューオーリンズのR&Bをベースにした痛快なシャッフル・ナンバーですが、バックにはユニークなパーカッションが入っていて、それは実にジャマイカっぽいニュアンスになっています。


 ダダ・テワリという名前もあまり聞かない名前だと思います。しかし、このたび大阪のレコード店ドラム&ベースレコーズさんが主宰する『ROCK A SHAKA』のシリーズがテワリの〈カリブー〉の音源をCDにまとめたのでその音源を容易に聴くことができるようになりました。その冒頭曲もローレル・エイトキンの「Boogie Rock」という曲ですが、これは「Aitkens Boogie」よりも時代が下がってからの作品です。この曲はあの有名なイギリスのレーベル、〈ブルー・ビート〉の記念すべき1枚目です。

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テワリのレーベル、〈カリブー〉のSP時代のレーベル
ダダ・テワリのレーベル〈カリブー〉のSP時代のレーベル

Neumann AM131 Disk Cutting Lathe
Neumann AM131 Disk Cutting Lathe

 折角ですから、ダダ・テワリにも少し触れておきましょう。彼は、ジャマイカでは有名な富豪であるインド系ジャマイカ人テワリ家の一員です。ジャマイカで有名なチボリ・ガーデンは、テワリ家の所有地を公園にしたものです。テワリ一族は、いろんなオーディション会場としても使われたリーガル・シアターの所有者だったので、当時そこで行っていたオーディションが熱を帯びてきていることから、音楽ビジネスにうまみがあることを察し、音楽業界に進出したのです。ただし、ダダ・テワリは多く行っていた事業の一つとしてレコード会社を興したので、金銭管理はするものの、制作面はローレル・エイトキンなど外部プロデューサーが行っていたのです。テワリは自己所有のスタジオこそありませんでしたが、ジャマイカで初めてマスタリングができる設備を用意し、さらに他よりも安価でレコードを制作できるか腐心し、多くの顧客を獲得したのでした。テワリのレーベル、〈カリブー〉のSP時代のレーベルもせっかくですから、載せておきますね。


 さて、テワリが、マスタリングを可能にできるようになった後、〈フェデラル〉もNeumann AM131 Disk Cutting Latheという機械を導入し、マスタリングをできるようにしました。このノイマンの機械は、テルデックとノイマンというドイツの電機会社2社が共同開発したDMM(ダイレクト・メタル・マスタリング)という方式を採用した機械で、音を直接金属(一般的には銅)に溝を刻み込むものです。それまでは金属製スタンパーを作るのに必要だったメッキの工程を省くことができる上に、それまでの方式よりもノイズを軽減できる画期的なものでした。そのような機材の充実をはかりつつ、クーリーは、サウンド・システム・オーナーたちとのつきあいも深め、先のマーキュリーに加え、〈ドット〉等の米レーベルのライセンス販売を始めるなど順調に業容を拡大しました。60年代初頭にはグッドールをエンジニアとして迎え、220フォーショア・ドライヴに新設のフェデラル・スタジオをオープンさせました。当時のジャマイカにはラジオ局のスタジオはありましたが、本格的な音楽専用のスタジオはフェデラル・スタジオが最初でした。ですから、ラジオ局のスタジオと並んで〈フェデラル〉は、多くの顧客を集めました。〈スタジオ・ワン〉のコクソン・ドッドも〈トレジャー・アイル〉のデューク・リードも〈マタドール〉のロイド・デイリーもフェデラル・スタジオを利用しました。そして、そこではグッドールが手腕を発揮し、数多くの名作が残されていったのです。

 ちなみにフォーショア・ドライヴは、後にマーカス・ガーヴィ・ドライヴと改名し、〈フェデラル〉は81年にこのスタジオ・コンプレックスをボブ・マーリーの〈タフ・ゴン(グ)〉に売却するまで、この地で活動しました。ちなみに今でも、この場所は〈タフ・ゴン(グ)〉の拠点として今でも存在しています。


 自身のスタジオを充実させたクーリー〜〈フェデラル〉は自社リリースも増やしていきます。とはいえ、スティーヴ・バロウがライナー・ノーツで指摘しているように、制作を担当したのは、ケネス自身ではなく、サム・ミッチェルとキース・スコットのコンビや、ボブ・アンディ、ロイド・チャーマーズ、バニー・リー、デリック・ハリオット、それにファミリーであるリチャードとポール・クーリーといった〈フェデラル〉のお抱えプロデューサーたちが担当したのでした。今回、VP RECORDSからリリースされた『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』だけでは見えにくい部分があるので、〈フェデラル〉の初期のアルバムをいくつか並べてみましょう。『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』とはあまりかぶらないアーティストのアルバムを10枚だけ選んでみました。


〈フェデラル〉のアーティスト・アルバムを10枚だけ選んでみました

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ERNEST RANGLIN / BOSS REGGAE
ERNEST RANGLIN / BOSS REGGAE
ルイス・デイヴィッドソン、リチャード
ルイス・デイヴィッドソン、リチャード

アーネスト・ラングリン、リチャード、ゲイリー
アーネスト・ラングリン、リチャード、ゲイリー

 (1)は、〈フェデラル〉最初期の1枚。1961年の作品。アーネスト・ラングリンからバーティ・キング、バイロン・リー&ザ・ドラゴネイヤーズなど当時の〈フェデラル〉人脈がぎっしり。このアルバムのラストの曲は、ラスタの影響を強く感じさせる曲。61年にして!です。

 (2)は、〈フェデラル〉の系列〈カリプソ〉からのLPの1枚。このレコードの〈フェデラル〉のスタジオ住所は、改名前のフォーショア・ロードになっています。裏面の解説を読んでいると、ターゲットはジャマイカへの観光客へのお土産という感じです。

 (3)〜(7)は60年代半ばから後半にかけての作品群です。この時期のエンジニアはルイス・デイヴィッドソンやケンの弟のリチャード・クーリーがつとめていることが多いですね。ルイスとリチャードの2ショット写真がありましたので、載せておきます。そして、いくつかの作品では「Selections」というクレジットでゲイリー・ホールという名前がでてきますが、彼が〈フェデラル〉のA&Rだったのだろうと想像しています。アーネスト・ラングリン、リチャード、ゲイリーの3ショット写真がありましたので、こちらも載せておきましょう。

 (3)はCD化もされているラングリンの作品。同時期のラングリンの作品には、ニューヨークの〈ステディ・レコーズ〉からの『BOSS REGGAE』というのもありますが、これも〈フェデラル〉の制作です。

 (4)は、最初のロック・ステディとも言われることも多いタイトル曲はじめ、スカからの流れを大きく変えた原動力ともなった作品です。もちろん今回の『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』にも収録されています。リン・テイトの好演もすばらしい名盤です。このアルバムのミュージック・スーパーヴァイザーズにキース・スコットとサム・ミッチェルがクレジットされています。ちなみにこの2人は今回の『REGGAE ANTHOLOGY - THE DEFINITIVE COLLECTION OF FEDERAL RECORDS』に収録のタータンズの楽曲もプロデュースしています。

 (6)は、ジャマイカでは有名な詩人でありコメディエンヌであるミス・ルーことルイーズ・ベネットの作品。こういったフォークロアの作品を出しているのも〈フェデラル〉の特徴の一つです。彼女は、本作以外にも〈フェデラル〉からアルバムを数枚リリースしています。

 (7)は、〈フェデラル〉の最初期から活躍するカウント・オーウェンの作品。タイトルからしてすごいでしょ? 際物っぽいですが、なかなかユニークで面白い作品です。

 (8)(9)は(2)同様にラングリンの作品。RCAからのリリースですが、制作は〈フェデラル〉です。ダブ・ストアさんが再発したラングリン作品もRCA経由でリリースされたものでした。

 (8)は、1曲だけですが、ラングリンがアルト・サックスを吹いている珍盤でもあります。

 (10)は初期アイランドからもリリースされ、このCDにも収録されているグランヴィル・ウィリアムス・オーケストラ「Hi-Fi」をタイトルにしたアルバム。ウィリアムスは、バイロン・リーのドラゴネイヤーズでオルガン奏者として活躍した人物。

 このように初期の10枚をみていただければおわかりの通り、非常に幅広いリリースが目立ちます。


 〈フェデラル〉は、ジャマイカの音楽の産業化の中心的な役割を果たしたといっていいでしょう。音楽には、音楽を生み出す作り手だけではなく、それをきちんとビジネスにする(形にする)人が必要なのです。そういう人たちは、あまり話題にならなかったりしますが、実は重要な役割を果たしています。ケン・クーリーは、コクソン・ドッドやデューク・リードのように話題になることは少ないかもしれませんが、ジャマイカの音楽を語る上で欠かすことができない重要な存在なのです。

 ロイド・ブラッドリーの著者『ベース・カルチャー』に、ケンについてこのような趣旨の話があります。初期のレコード・ビジネスの中でもっとも誤解されてるのはケン・クーリーで、音楽を純粋に作りたいゲットーの人々を食い物にしたと。しかし、ロイドはこのように書いています。「もし、クーリーがいなかったら、弟のリチャードがいなかったら、そしてレコーディングからレーベルの印刷にプレスまでの全行程を一つの建物の中で完結させられる音楽工場フェデラル・レコーズがなかったら、この島に音楽産業はおそらく生まれなかっただろう」と。ケンが、なぜ搾取する人間のように受け止められたかには、いろんな意見があるでしょうが、彼がアップタウンの人間だったから、いかにも搾取する側のように映ったのかもしれないですね。とかく人は、コクソン・ドッドのことを搾取するひどい人間だとか、デューク・リードもひどかったとか、ジョー・ギブスは銭勘定ばかりしていた…とか、プロデューサーという人を搾取する側の人間として描きたがるものです。だから、ケンの悪評もそれほど根拠のないものなのかもしれません。プロデューサーとしてきちんと銭勘定するのは当たり前のことなのですが、そのことが誇張されてしまうのは世の常なのかもしれないですね。しかし、そんな悪評があったにせよ、ケンのジャマイカ音楽界における功績はすこしも減ることはないと声を大にして言っておきます。


 ケン・クーリーのもっとも大きな貢献は、お金持ちを中心に回っていたレコード・ビジネスを、大衆音楽、ストリート・レベルの音楽を中心にする、そんな役割を彼が担ったことだと思っています。彼が、サウンド・システムの運営者達と親密な関係を築くことがなかったら、今のジャマイカ音楽は今とは全く違ったものになっていたはずです。お金がない小さなプロダクションにでもケンはチャンスを与えました。だからこそジャマイカのサウンド・システムや初期のレコード制作の世界は活性化し、飛躍したに違いないのです。レコーディングやレコード製造機材を充実させた貢献は当然のこととして、彼の最大の貢献は、街の流行の音楽をビジネスの中心にしたことにあると僕は思っているのです。

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これがレゲ
「これがレゲ」

英トロージャンから出ているアーニー・スミス『LIFE IS JUST FOR LIVING』
英トロージャンから出ているアーニー・スミス『LIFE IS JUST FOR LIVING』

 ここまで、長々と書いてきましたが、〈フェデラル〉編はこれでおしまい。CDの内容にはほとんど触れてませんけどね。


 蛇足的に、CDに2曲も収録されていながら、日本での知名度はあまりないアーニー・スミスについてちょっとだけ書いておきます。今40代以上の方なら、かつて「世界歌謡祭」という音楽イベントがあったことを記憶されていると思います。実はこのアーニー・スミスは73年の第3回の「世界歌謡祭」に出場し、グランプリを受賞しています。その機会に発売された日本盤のジャケットを載せておきます。帯の邦題が泣かせますね、「これがレゲ」です。レガエとかレゲとか表記が定まっていなかった時代です。このアルバムのクレジットをみると〈フェデラル〉が制作であることがわかります。中身は英トロージャンから出ている『LIFE IS JUST FOR LIVING』とちょっとだけ収録曲がダブっています。トロージャン盤のタイトル曲はアーニー・スミスの代表曲でもあります。アーニーの〈フェデラル〉での録音は先頃VP RECORDSより『THE BEST OF ERNIE SMITH ORIGINAL MASTERS』としてCD化されましたので、容易に音を聞けるようになりましたので、おすすめしておきます。


 今回も長々と失礼いたしました。面白かったと思っていただけるといいけれど。では来月お会いしましょう。



藤川 毅 [ふじかわたけし]
1964年鹿児島市生まれ。
高校卒業後、大学進学のため上京。
大学在学中より音楽関係の仕事をスタートし、『レゲエ・マガジン』の編集長など歴任するも、思うところあり、1996年帰郷。
以来、鹿児島を拠点に会社経営をしつつ、執筆活動などを続ける。
趣味は、自転車(コルナゴ乗り)と読書、もちろん音楽。
Bloghttp://www.good-neighbors.info/dubbrock
Twitterhttp://twitter.com/dubbrock

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