藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE

 連載3回目です。前回から引き続き24×7 RECORDSさんから依頼いただいているエロル・トンプソンについて話を進めます。前回の連載では、主にキングストンのノース・パレードにあったランディーズ・スタジオ時代のエロルについてお話ししました。今回は、ジョー・ギブスのスタジオ時代です。

 最初にお断りしておきますが、今月でもエロル・トンプソン編は終わりません。来月こそ完結しますので、おつきあいいただけると幸いです。

 エロルのギブス・スタジオ時代の仕事に入る前に、ジョー・ギブスという人がどういう人だったかについて、話をしておかなければならないでしょうね。

 ジョー・ギブス、本名ジョエル・ギブソン。1945年(43年説もあり)、ジャマイカのノースコースト生まれで、同じくノースコーストのモンティゴベイ育ち。アメリカの学校に通信制で電気を学び(ジャマイカで、ということですね)、62年にキングストンに出て、66年、主にテレビやラジオの修理・販売を主業とする電気店を開業します。この店の道路向かいには、レスリー・コングのビヴァリーズ・アイス・クリーム・パーラー&レコード・ショップがありました。レスリー・コングは中国系ジャマイカ人の音楽プロデューサーで、ボブ・マーリーの最初の録音なども手がけた人です。レスリーは71年に38歳で早世しましたので、コクソン・ドッドやデューク・リードのように話題に上ることは多くないかもしれませんが、ジミー・クリフやトゥーツ&ザ・メイタルズなど60年代に数多くの優れた作品を残しています。それらの作品はクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードからリリースされた作品も多いので親しんでおられる方もおられることと思います。ジョー・ギブスは、道路向かいのコングの店で、音楽に引きつけられる人たちを見たジョーは、お客さんを呼ぶために自分の店にレコードを置くようになります。これこそが、ジョー・ギブスが音楽業界に入るきっかけとなり、ついには制作の世界へと足を踏み出していくことになります。

ナイニー・ジ・オブザーヴァー
ナイニー・ジ・オブザーヴァー

REGGAE ANTHOLOGY-SCORCHERS FROM THE EARLY YEARS REGGAE ANTHOLOGY-SCORCHERS FROM THE EARLY YEARS 1967-73 / JOE GIBBS
VP4151 / IMPORTS / 2CD

 エロル自身も電気の知識がありましたが、音楽制作の世界では素人同然でした。しかし、不思議なことに彼の周囲には才能溢れる人たちが寄ってきます。寄ってきた才能のひとりが、リー・ペリーであり、ナイニー・ジ・オブザーヴァーであり、リン・テイトでありました。リー・ペリーは、かつてスタジオ・ワンのコクソン・ドッドの下にいました。ペリーはアップセッターというニックネームで知られていますが、それは、ギブス時代に残した自身の曲「The Upsetter」がきっかけでもあります。アップセッターは、ペリーのレーベル名としても有名になることは皆さんもご存じのことと思います。

 ギブスの最初期のヒットは、初期ロック・ステディの名曲、ロイ・シャーリーの「Hold Them」です。この曲でバックをつとめたのは、ロック・ステディの誕生に多大な功績を残したリン・テイトでした。これらのロック・ステディ期の楽曲は、イギリスでもトロージャン系列のドクター・バード・レーベルからリリースされ、英国でも人気を獲得します。アルバムもトロージャンからリリースされ、『JACK POT OF HITS』など、知られている作品も多いかもしれません。この時期の作品についていろいろと述べるのは、今回の原稿の主旨から外れますので、遠慮しますが、ストレンジャー&グラディの「Just Like A River」など素敵な作品がたくさんあります。ジョー・ギブス初期の作品については、『REGGAE ANTHOLOGY-SCORCHERS FROM THE EARLY YEARS 1967-73』をお聴きいただきたいと思います。ちなみに、「Just Like A River」は、70年代の半ばにジョー・ギブス・レーベルでマイティ・ダイアモンズが再演しています。12インチ盤にはランキン・ジョーのDJが接続されています。こうして音楽制作の世界にも足を踏み入れたジョー・ギブスは、68年、フェデラル・スタジオの中古機材を流用した2トラックのシンプルなスタジオをオープンさせます。そしてそこで生み出した作品を、〈アマルガメイテッド〉や〈ジョーギブ〉といったレーベルを使用しながらリリースしました。ジョー・ギブスは、後年、〈ジョー・ギブス〉、〈エロル・T〉、〈タウン&カントリー〉など多くのレーベル名を使いました。ちなみに〈アマルガメイテッド〉は最初の電気店の名前に由来していますが、名前を発音しにくいとのことからパレードに開いた次のレコード・ショップはニューヨーク・レコードマートと名付けました。それから71年にはショップを併設したスタジオをリタイアメント・クレッセントに開きます。この場所こそ、映画『ロッカーズ』でジョー・ギブスとともに出てくるレコード・ショップです。

STATE OF EMERGENCY / JOE GIBBS & PROFESSIONALS
STATE OF EMERGENCY / JOE GIBBS & PROFESSIONALS / IMPORTS
ROCKERS DIARY ET Recording Studio
“ET RECORDING STUDIO”と描かれた壁が背景となっている写真(書籍『ROCKERS DIARY』より参照。著者は映画『ROCKERS』の監督セオドロス・バファルコス)

 ジョー・ギブスとエロルは、ナイニーの紹介で知り合ったらしいのですが、その頃はまだエロルは〈ランディーズ〉で働いており、エロルがギブスの専属になるのは、ギブスがリタイアメント・クレッセントのスタジオを16チャンネル化し、リニューアルした75年のことでした。実際にこのスタジオは実際にエロル自身が作ったといっても差し支えないのです。ちなみにエロルがミックスしたダブ・アルバム『STATE OF EMERGENCY』のオリジナル盤のクレジットを見ると、スタジオ名は“ET Recording Studio”と書かれています。ETとはもちろん、エロル・トンプソンの頭文字ですね。

 75年にエロルが〈ジョー・ギブス〉の新しいスタジオに移ってしまったということは、それまで彼が在籍していた〈ランディーズ〉のスタジオはどうなったのでしょうね? エロルの後には、ジョージ・フィルポットやパット・ケリー、カール・ピッターソンらがエンジニアとして活動しました。パット・ケリーはテクニークスのヴォーカルでもあったあの人です。彼はシンガーとしてとても素晴らしい人ですが、エンジニアとしてもキング・タビーの薫陶を受けた優秀なエンジニアでもありました。タビー直系のエンジニアとしては、プリンス・ジャミー(後にキング・ジャミー)が有名ですが、ジャミーとの間に、後にニューヨークへ渡ったフィリップ・スマートと、ケリーがいました。カール・ピッターソンは後に〈ブラック&ホワイト〉という自身のレーベルを興す人です。〈ランディーズ〉は、後任に優秀なエンジニアがつとめはしたものの、エロルの穴を埋めることが出来なかったというのが現実だったといっていいでしょう。以降の〈ランディーズ〉は失速してしまうのですから。

 逆にエロルを得た〈ジョー・ギブス〉は水を得た魚のごとく、生き生きと活動し、ヒットを連発します。


 エロルが参加して以降の〈ジョー・ギブス〉のヒット曲をあげてみましょう。

 カルチャー「Two Sevens Clash」、ボビー・メロディ「Jah Bring I Joy」、ルディ・トーマス「Loving Pauper」、プリンス・ファーライ「Heavy Manners」、トリニティ「Three Piece suit and thing」、アルシア&ドナ「Uptown Top Ranking」、デニス・ブラウン「Money in my pocket」…。枚挙にいとまがありませんが、これらの多くに共通しているのは、〈トレジャー・アイル〉や〈スタジオ・ワン〉といったジャマイカ音楽の草分けのレーベルなどが作ったいわゆる定番リズムのリメイクが多いということです。「Jah Bring I Joy」は、ゲイラッズの「Joy in The Morning」のリメイクですし、トリニティとアルシア&ドナの曲は同じリズムですが、アルトン・エリスの「I'm still in Love」のリメイクです。この時期、ジャマイカでは、リメイク・ブームが来ていました。それこそトレンドだったのです。そのトレンドをリードしたのが、ジョー・ギブスであり、ライバル=〈チャンネル・ワン〉や〈バニー・リー〉でした。バニーはプロデューサーとして先輩格ではありましたが、 ギブスは、自身のスタジオを持っているというアドヴァンテージを持っていました。〈バニー・リー〉は自身のスタジオを持っていなかったのです。〈チャンネル・ワン〉は同名のスタジオを持っていましたが、同スタジオが16チャンネル化するのは79年まで待たなければなりません。スタジオの有無ばかりか、スタジオ設備でも75年時点で他を圧倒し、そしてそこには〈ランディーズ〉で経験を積んだエロルが座ったわけです。この時期のジョー・ギブスの楽曲は、VPからの『REGGAE ANTHOLOGY-SCORCHERS FROM THE MIGHTY TWO』で堪能いただけます。前場曲も全て収録されています。

 とはいえ、定番のリズムのリメイクだけで差別化するのはとても難しいですね。特に〈チャンネル・ワン〉の演奏を担当していたレヴォリューショナリーズとジョー・ギブスのプロフェッショナルズはスライ・ダンバーなど主要メンバーが重複していましたから、なおさらのことです。そこで、ギブスも〈チャンネル・ワン〉もいろんな工夫をします。結果的には似たようなトレンドとなってしまうのですが、その工夫こそダブであったり、本編の後にダブやDJものをくっつけ12インチで仕上げるヤード・スタイルだったりしたわけです。

 ジョーとエロルという2人がマイティ2として活動するようになり、ギブスは良質な作品を数多く生み出します。その筆頭格がジョセフ・ヒル率いるカルチャーでした。3人組というジャマイカの伝統的なコーラス・グループのスタイルをとりつつ、リーダーでリード・ヴォーカルをつとめるジョセフ・ヒルのあくの強いヴォーカルとメッセージ色の強い歌詞は70年代後半のレゲエをリードするものでした。70年代半ば過ぎにジョー・ギブスは、英国のメジャー・レコード会社、ワーナー傘下のライトニンやレイザーから作品を出す環境が出来ていましたから、カルチャーの作品もジャマイカ以外の国で広く認知されました。パンク・バンド、クラッシュのバンド名は、カルチャーの大ヒット曲「Two Sevens Clash」からとられたというのは有名な話です。

 パンクとレゲエについては、その橋渡し役のひとりでもあったドン・レッツが2006年に発表した本、『CULTURE CLASH: DREADS meets PUNK ROCKERS』(SAF Publishing Ltd.)にも記述があります。レッツは、ジャマイカ人の両親を持ち、自身はイギリスで生まれたイギリス生まれジャマイカ人の第一世代です。本の記述の一部にはこうあります。

 「オレとジョン・ライドン、ジョー・ストラマー、そしてスリッツのアリアンナは、ダルストンのレゲエ・クラブ、フォー・エイセズでよく時間を過ごしたものだよ。そこは、スピーカーが天井まで積み上げられた狭く暗い場所だったけれど、そこでは、ガンジャと酒、熱気、低音のコンビネーションを愉しんだものだよ。そこは、イギリスのレゲエ・クラブの中でもハードコアなクラブだったから、白人はジョンとジョー、アリアンナぐらいしかなかった。だからこそ彼らはリスペクトを集めたよ。アリとオレはいろんなレゲエ・クラブや、タウンホールで行われていたコクソン対サクソンのサウンド・クラッシュなんかにも顔を出していたよ」

 ジョン・ライドンとはジョニー・ロットンのこと。セックス・ピストルズのヴォーカリストでした。ピストルズ解散後、ジャマイカ旅行に出た話は一部では有名ですね。ジョー・ストラマーはクラッシュのヴォーカリストでした。惜しくも2002年に他界してしまいました。アリアンナとは、スリッツのアリ・アップのことです。彼女は最近でもジャマイカのダンスの現場に出入りしていますし、最近はレゲエ色の強いアルバムを出しました。70年代からダンスの現場に出入りしているとは、昔からやっていることはあんまり変わってないですね。でも、70年代半ばといえば、彼女は十代半ば。早熟な女の子でした。ま、自分のバンド名をスリッツ=割れ目ちゃんなんて名前をつけるぐらいですから、ぶっ飛んだ子ではあったのでしょう。さて、レッツの本には以下のような記述もあります。

 「サウンドシステムは伝統的にスピリチュアルでカルチャラル、ポリティカルな情報を伝播する機能を持っている。イギリスの若い黒人は「Burn Babylon」や「I Need A Roof Over My Head」「Money in My Pocket」「Police & Thieves」「Two Sevens Clash」といった曲のメッセージから影響を受けやすかった。パンク・ロッカーたちも同様に感受性が強く、クラッシュなどは「Hate & War」や「Under Heavy Manners」といったタッパ・スーキーやプリンス・ファーライ、カルチャーからのフレーズに影響を受けたスローガンを自身のTシャツに書いていたよ。クラッシュやジョン・ライドンは、レゲエの革命的な姿勢とエスタブリッシュメントに対する強固な嫌悪を理解し同調していたよ」

 レッツの本には、他にも数多くのパンクスとレゲエとの邂逅が描かれていますが、ここでは本題ではないので省略します。しかし、パンクスたちが愛したレゲエこそ、ジョー・ギブス等が制作したレゲエだったのです。レッツがトロージャンに選曲したCD『PUNKY REGGAE PARTY: NEW WAVE JAMAICA 1975-1980』にはトリニティ「Three Piece Suit And Thing」、プリンス・ファーライ「Heavy Manners」、アルシア&ドナ「Uptown Top Ranking」、デニス・ブラウン「Money In My Pocket」といったジョー・ギブス制作の名曲・ヒット曲が数多く含まれています。

 話がそれました。カルチャーの話に戻します。

 カルチャーは93年に来日していますが、そのときのインタビューがレゲエ・マガジンの38号に掲載されています。インタビュアーは当時渋谷にあったレゲエ・レコード専門店Lion Music Den渋谷店の店長だった備前貢さんです。そのインタビューで、リーダーのジョセフ・ヒルは、ジョー・ギブスについてこのように述べています。

 「彼(ジョー・ギブス)は自分のための金の計算ばかり熱心にやっていた。それが、彼のプロデュースだ。そして、レコードが出来上がると、必ず自分の名前をクレジットに載せるんだ。また、断じていっておくが、音楽面での実質的なプロデューサーは、エロル・トンプソンだった」

 ジョー・ギブスは、金のことばかり考えている奴だと散々な言われようです。ジョー・ギブス守銭奴説(笑)は、いろんなアーティストのインタビューに出てきます。そもそもプロデューサーという存在こそが搾取するというスタンスもありますから、仕方ない側面があるとはいえ、ちょっとあまりの言われようかなとも思います。

 同じインタビューで、ヒルはエロルについてこのように話しています。長いですが引用します。

 「ジョー・ギブスのスタジオで、初めて彼のミックス作業の現場を私が見たとき、私には彼がマジシャンのように見えたよ。彼は、私たちが必要としている音が何かを、すぐに理解してくれて、実際にそれを音にしてくれる。そのテキパキした仕事ぶりには本当に魅了されたし、尊敬に値する。ジョー・ギブスと一緒に組んでいても、特にお金にこだわっているわけでもなく、それよりも自分の価値観とミュージシャンやアーティストの価値観を大切にする人だった。彼はまた、当時の私たちを今までになかったタイプの音づくりで、いわば斬新に売り出そうとしていた。果たしてそれは成功し、『Two Sevens Clash』が生まれた。更に言えば、それは後々のジョー・ギブス・サウンドの基盤となった」

 また、当時のジョー・ギブスの12インチが、DJが接続されたディスコ・スタイル(=ヤード・スタイル)になっていることについて、ヒルは以下のように述べています。

 「これは、エロル・トンプソンのアイディアだ。彼は次の世代のタレントを常に意識していたから、ポスト・タレントを考慮して、12インチ・ディスコやシングル、そしてオムニバス・アルバムなんかでは、幅広い展開を考えていた人だった」

 昨2009年から今年にかけてVPより5枚にわたり発売されたジョー・ギブスの12インチ集はこのような背景で作られた楽曲をまとめたものだったのですね。この12インチ集が素晴らしいのは、この作品群が単なる奇をてらったアイディアによる産物ではなく、それぞれの曲が魅力的だからです。それを支えたのはエロルのアイディアと技術、そしてギブスの経営手腕だったわけです。連載前回でも紹介したマイケル・ヴィール著『DUB Soundscapes & Shatterd Songs in Jamaican Reggae』(Wesleyan University Press, 2007)に掲載されているスライ・ダンバーのインタヴューでスライは、「初期のギブスのプロダクションは行き当たりばったりだった。きちんとオーガナイズドされるようになったのはリタイアメント・クレッセントに移ってからのことだった」と話しています。つまり、エロルが参加してからギブスは機能するようになったと言うことですね。

 レーベル・オーナーとして、お金のこと経営のことを考えるのはとても大切なので、個人的にはジョー・ギブスのような人は必要だと思います。アーティスト側からすると搾取された感が強くなってしまうのは仕方ないのかもしれないですね。でもエロルのアイディアやヴィジョンを実現するためにギブスのような人の存在は不可欠でした。お互いを補完する関係にもあったギブスとエロルは、まさにマイティ2であったといえるでしょう。  

 というわけで、今月はこのあたりで。来月ではダブ・エンジニアとしてのエロルの本質に入っていきたいと思っています。



藤川 毅 [ふじかわたけし]
1964年鹿児島市生まれ。
高校卒業後、大学進学のため上京。
大学在学中より音楽関係の仕事をスタートし、『レゲエ・マガジン』の編集長など歴任するも、思うところあり、1996年帰郷。
以来、鹿児島を拠点に会社経営をしつつ、執筆活動などを続ける。
趣味は、自転車(コルナゴ乗り)と読書、もちろん音楽。
Bloghttp://www.good-neighbors.info/dubbrock
Twitterhttp://twitter.com/dubbrock

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