藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE

エロル・トンプソン
エロル・トンプソン

 連載4回目です。前々回前回から引き続き24×7 RECORDSさんから依頼いただいているエロル・トンプソンについて話を進めます。前々回の連載では、主にキングストンのノース・パレードにあったランディーズ・スタジオ時代のエロルについてお話ししました。前回はジョー・ギブスとエロル・トンプソンについて簡単に触れました。今回は、エロル・トンプソン完結編。エロルのダブとギブスの終焉がテーマです。


 今回は、まず、エロルのエンジニアとしての頂点とも言うべきダブの諸作について簡単に触れておきましょう。〈ジョー・ギブス〉から出たエロルのダブ・アルバムの主要なものは以下のような感じです。年代別に並べてみました。


 〈ジョー・ギブス〉から出たエロルのダブ・アルバムの主要作品


 『AFRICAN DUB』チャプター1〜4は、2007年にVPから4枚同時発売されましたし、これまでも幾度か再発、CD化されてきました。4枚組のBOXセットもあります。


 『DUB SERIAL』は超レア盤でしたが、GREENSLEEVESからのボックス『EVOLUTION OF DUB Vol.1』というBOXで初CD化されました。『STATE OF EMERGENCY』と『MAJESTIC DUB』『AFRICAN DUB Chapter5』は同シリーズの『EVOLUTION OF DUB Vol.4』でCD化されています。つまりギブスでのエロルの主なダブは全てCD化されているということになります。


 最初の2枚は、先の連載でも書いたように、ギブスからのリリースでエロルのミックスですが、エロルの〈ランディーズ〉時代の作品ですから、『STATE OF EMERGENCY』が、エロル移籍後最初のダブ作品ということになります。自身が使うスタジオが16チャンネルになったことにより、エロルは、新たな録音の試行錯誤することになります。どの楽器を独立したチャンネルに録音するかというような録音の根幹に関わることから大きく変化するのですから。エロルにとって初期の『DUB SERIAL』や『AFRICAN DUB Chapter1』のミックスが比較的穏やかなのは、機材的な制約が大きかったはずです。ドラムやベース、ギター、鍵盤楽器、ヴォーカル…と録音していくと4チャンネルや8チャンネルでは出来ることは自ずと制限されます。 しかし、16チャンネルというそれ以前よりは多チャンネルな環境を手にしたことにより、リメイク・トラックの分解という作業を行い、ミックスにおける幅広い自由を獲得することになります。『STATE OF EMERGENCY』は、新スタジオでのミックスです。この時点では、ランディーズ期に特徴的だった抑制のきいた(派手さのない)ダブのニュアンスが強い仕上がりですが、初期の二作と比べると格段の進歩を聴けます。ハイハットのニュアンスや鳴り物の使い方活かし方など以前の作品と比べると格段の差です。『STATE OF EMERGENCY』は、ジョン・ホルト「Up Park Camp」や〈スタジオ・ワン〉の「Heavenless」、ジャッキー・ミットゥ「Our Thing」のリメイクを収録しています。


 そして、エロルのダブが爆発するのはなんと言っても『AFRICAN DUB Chapter3』です。これは凄すぎます。この作品を作るためにリタイアメント・クレッセントのスタジオは作られたのではないかと思うほどです。〈ジョー・ギブス〉で制作された楽曲のダブなのですが、エロルの創造性が至る所に発揮された作品に仕上がっています。


 “That one deh a killer!”という声でスタートする1曲目は「Rockers meets King Tubby's Uptown(=Cassava Piece)」のリメイクで、キング・タビーへのリスペクトであるととともに、挑戦状ともいえるでしょうか?  このアルバムの元ネタの多くはロック・ステディだというのも大きな特徴でしょう。〈トレジャー・アイル〉のメロディアンズ「Everybody Bawling」、アルトン・エリス「Why Birds follow spring」、〈スタジオ・ワン〉のマッドラッズ「Zion Gate」、同じく〈スタジオ・ワン〉のサウンド・ディメンション「Psychedelic Rock(Rock Fort Rock)」、ウェイラーズ「Hypocrite」などが元ネタです。


 これらは、ロック・ステディのリズムを解体し、16チャンネルのマルチトラックのテープに再録音し、そしてそれをミックスするという解体と再生の過程をエロルの長年培ってきた技術で生み出したものですが、そこにはスライ・ダンバーを中心とした優れたドラマーや優れた演奏家の存在抜きには語れません。スライ・ダンバーの凄さやロビー・シェイクスピアやロイド・パークスのベースの凄さはボクがここで特筆しなくても問題ないでしょうから、ここではあえて、フランクリン・バブラー・ウォウルについて僕の想像を含めて軽く触れておきたいと思います。バブラーは、今でも活動するキーボード奏者、プロデューサーですが、70年代はまだまだかけだしです。エロルの特に『AFRICAN DUB Chapter3』の凄いところは、雷の音やベルや電話の音など様々なサウンドエフェクトが随所に施されている点ですが、単にSEを施しているだけではなく、曲をより立体的に新たな次元にまで高める効果的なSEとなっているところに驚かされるわけです。ここで使用されているSEのうち、水の流れの音などはきっとエロルが実際に録音したのでしょうが、いろんなSEはバブラーのシンセでエロルと共同制作で作られたに違いないと僕は想像したりしています。


 楽曲の中に様々なSEをくわえること自体、非常に目立ちます。ですから、SEのことをエロルのダブの特徴として取り上げられることも多いです。これらのSEやサウンドコラージュの世界は、今のようなサンプリング時代には、簡単にできてしまうわけですが、その基礎中の基礎はこのエロルのAFRICAN DUB、特に『AFRICAN DUB Chapter3』にあったといえるでしょう。しかし、エロルのダブは、サウンドコラージュを配したSEの妙にだけあるのではないのです。16チャンネルというチャンネル数を得た彼は、楽器へのエフェクトなどそれまでとは異なったアプローチをしています。『AFRICAN DUB Chapter3』ラストに収録されている「Dub3」で聴けるような、スネアのリヴァーヴのかかりを聴いてもらえればよくわかります。エロルが追求した世界は、機材の充実を通じて、より自由な環境を得て、完成度を高め、『AFRICAN DUB Chapter3』時期に開花したといえるでしょう。


 ダブの代表格ともいえるキング・タビーは、自身の電気工学の知識を駆使し、市販のミキサーのスライドフェイダーを新たなフェイダーに取り替え、自分が理想とする音を実現するためのカスタマイズを自身で行い、常に改良・改善しました。ちなみに、スタジオに先立ち、タビーは、自身のタビーズ・ホームタウン・ハイファイというサウンドシステムを運営していました。そこでも、タビーの電気の知識は遺憾なく発揮されました。高音用のツイーターはトランジスタ製のアンプで鳴らし、低音用のウーファーは真空管アンプで鳴らすなど、今でいうチャンネルディバイダー的な感覚をサウンドシステムで活かしていました。そして、サウンドシステムにリヴァーヴなどのエフェクターを持ち込んだのもタビーが最初でした。タビーはサウンドシステム用のダブ・プレートをカットする仕事もしていましたが(ダブカットの最初期の顧客はトレジャー・アイルでした)、ダブ・プレートのために、ヴォーカルなど特定の周波数をカットする今でいうグラフィック・イコライザーのようなものを自作し、ダブ・プレートの制作に必要な機材を整えていました。 自分の理想とする音の世界を実現するという姿勢は、スタジオ建設以前からのタビーの基本姿勢だったといえます。『DUB SOUNDSCAPES & SHATTERD SONGS IN JAMAICAN REGGAE』に収録されているタビーのエンジニアとしての一番弟子であったフィリップ・スマートの証言によると、サウンドシステムの運営とともにタビーが主業としていたのがアンプ製作と変圧器の製作だったそうで、当時のジャマイカでは、タビー以外に大出力のアンプ用の変圧器は自作できなかったと言います。そのようなこともあり、タビーのサウンドシステム期においては、アンプ製作等による収入も非常に大きなものだったらしいのです。


 エロル・トンプソンの原稿でタビーの話を長々とするのは、本意ではないけれどももう少し続けます。


 前述のフィリップ・スマートによると、タビーの最初のミキサーは自作のもので、ベッドルームをコンソールに使っていて、自作のミキサーは、6か8チャンネルで他に4チャンネルと2チャンネルのテープレコーダーと、〈トレジャー・アイル〉からやってきたアセテート盤をカットするための機械があったとのこと。タビーのスタジオの初期にはヴォイシング・ルームがなく、ベッドルームのコンソール内で歌入れもしていたそうです。そんな最初期のスタジオをタビーは、72年にアップグレードすることになりますが、そのときにバイロン・リーのダイナミック・スタジオで使っていた4チャンネルのミキサーをタビーに払い下げるブローカーの役割を果たしたのがバニー・リーでした。それがMCI(Music Centers Inc)の4チャンネルのミキシング・コンソールで、このコンソールを先に書いたようにタビーは使いやすいようにフェイダーを取り替えてしまったのです。


 タビーが自身の理想とする音を実現するために機材を自作し、近づいていったのに対し、エロルは純粋なスタジオ・ワークの積み重ねを通じて自身の世界を具現化していきました。両者は対極とまではいえないものの、違うアプローチで傑作が生みだしていったわけで、このことは実に興味深いですね。


 ミキシング・コンソールのブローカーとしてタビーともの凄く近い関係になったバニー・リーは、もの凄い量のリリースをしたことで知られていますが、その多くはタビーのスタジオが使われています。70年代半ばに入りギブスが自身のスタジオを持ち、エロルを引き入れてからは、リリース量はギブスが上回るようになります。自身のブラックアーク・スタジオを建設してからのリー・ペリーのリリース量がもの凄い量であったように、エンジニア、プロデューサーの充実期における録音環境の充実は当然ながら制作量を加速させます。70年代後半のギブスは量・質ともに充実した作品群を世に出していきました。それらが、先に触れたパンクスたちにも愛された楽曲だったわけですが、ここで、先にVPから出た12インチ集5枚を簡単に見てみましょう。


CULTURE & THE DEEJAYS AT JOE GIBBS</a> / CULTURE / IMPORTS / VP RECORDS
CULTURE & THE DEEJAYS AT JOE GIBBS
/ CULTURE / VP4116 / VP RECORDS / IMPORTS

TREE PIECE SUITE / TRINITY / IMPORTS
A LITTLE BIT MORE
/ DENNIS BROWN / VP4115 / VP RECORDS / IMPORTS

TREE PIECE SUITE / TRINITY / IMPORTS
TREE PIECE SUITE
/ TRINITY / IMPORTS

 このコンピレーションは、カルチャーやデニス・ブラウンなどの有名曲を敢えてはずしているようです。それはこの12インチ集に先立ち、『CULTURE & THE DEEJAYS AT JOE GIBBS』やデニス・ブラウン『A LITTLE BIT MORE』といった〈ジョー・ギブス〉での12インチを集めた編集盤がVPよりリリースされていることも影響しているでしょう。しかし、これらの12インチ集5枚にはギブスの歴史を語る上ではずせない人たちがたくさん含まれています。最多登場はDJのトリニティ。シンガーではルディ・トーマス。ルディは、ギブスの下ではエンジニアやプロデューサーとしても活躍したシンガーで、その甘い歌は、イギリスのラヴァーズ・ロックのフィールドでも活躍しました。JCロッジ、マーシャ・エイトキン、スーザン・カドガンなど女性シンガーとのデュエットが多いのも特徴かもしれません。惜しくも2006年に54歳の若さで他界しました。トリニティというと、前回の連載でも書いたようにアルトン・エリス「I'm Still in Love」のリメイク・リズムを使用した「Three Piece Suit and Thing」が有名です。この曲のアンサーソングで同リズムを使用したアルシア&ドナの「Uptown Top Ranking」はイギリスでもヒットとなりました。この曲のヒットは、マイキー・ドレッドのプロモーションによるものが大きかったことも付け加えておきます。

 トリニティの「Three Piece Suit and Thing」は、ギブスにとって最初のDJものだったそうで、トリニティ以降に数多くのDJものが生まれます。ただ単にDJを単体のアーティストとして売るのではなく、カルチャーのジョセフ・ヒルの「彼は次の世代のタレントを常に意識していたから、ポスト・タレントを考慮して、12インチ・ディスコやシングル、そしてオムニバス・アルバムなんかでは、幅広い展開を考えていた人だった」というコメントを連載前回で引用させて頂いたように、12インチというフォーマットを存分に活用し、タレントを見いだし、ギブスの黄金時代を築いていったわけですね。ギブスの作品は、70年代はワーナー系のライトニング、レイザー、その後はA&Mといったレーベルからワールドワイドに配給されました。中でもA&Mからのデニス・ブラウン「Love Has Found it's way」などは、ラヴァーズ・ロック・クラシックとして現在でも親しまれています。


 80年代に入り、ボブ・マーリーの死はジャマイカでも暗い影を落としていましたが、ダンスホール大爆発に向けての胎動はすでに始まっていました。マイティ2もダンスホールに対応し、当時の核だったデニス・ブラウン以外にもバーリントン・リーヴィ「My Woman」や先の3集に入っているイーカマウスの「Virgin Girl」あたりのヒットも放ちました。また、JCロッジの「Someone Loves You Honey」(チャーリー・プライドのカヴァー)を世界規模で放つなど絶好の80年代のスタートを切ったかに見えました。しかし、そのヒットが裏目に出ます。そのJCロッジの楽曲の著作権料を作曲者に支払わなかったことにより法廷闘争となり破産、ギブスはスタジオを閉鎖することを余儀なくされるのです。80年代に入り、マイアミに販路を開拓するなど、拡大しようとしていた矢先だっただけに、スタジオの閉鎖は大きな痛手となりました。 その後は、ノース・パレードでエロルとギブスはスーパーマーケットを共同経営するなど、音楽の一線からは身を引いてしまいます。ジョー・ギブスの音源は13人いたといわれるギブスの子供のうちの一人、ロッキー・ギブスがロッキー・ワン・レーベルを通じてリリースするなどしてその音楽的な遺産を引き継ぎました。

RIDDIM DRIVEN:HARD TIMES
RIDDIM DRIVEN:HARD TIMES
/ V.A. / VP2272 / VP RECORDS / IMPORTS

93年にマイティ2は、リタイアメント・クレッセントのスタジオを復活させ、シドニー・クルックスとの録音をするなどしました。エロルの最後の作品は、ジョー・ギブスの息子のスティーヴンとのダンスホール作品でした。そのリズム"Hard Times"は、VPからの『RIDDIM DRIVEN:HARD TIMES』としてまとめられています。Iウェインやチャック・フェンダー、リッチー・スパイス、ジュニア・ケリーなどが参加したこの作品は70年代のジョー・ギブスでも活躍したジョージ・ヌークスの作品なども収められておりとても良い作品でしたが、このプロジェクトを最後にエロルは55歳の若さでなくなってしまいました。 ギブスもブラジルで自身の音源を積極的に展開し、自身の音源復刻をVPとリンクして行うなど2000年を過ぎても活動していましたが2008年2月に心臓発作で他界しました。


 著作権料不払いによってスタジオを失うというのは、スタジオ・ワークを積み重ね、自身の作品を生み続けてきたエロルにとって、辛い状況だったろうと思います。そんなわけで、80年代以降は恵まれた音楽生活ではなかったかもしれないけれど、彼らマイティ2が60〜70年代に生み出した音楽の数々はジャマイカ音楽史に燦然と輝く金字塔として今も輝いています。そして、エロル・トンプソンの名前がダブ・エンジニアとしてのみならず、名プロデューサーとしても皆さんの記憶に刻まれることを願って、3ヶ月の長丁場に渡ったエロル・トンプソン篇をしめさせていただきます。ありがとうございました。

 〆させていただきます。

藤川 毅 [ふじかわたけし]
1964年鹿児島市生まれ。
高校卒業後、大学進学のため上京。
大学在学中より音楽関係の仕事をスタートし、『レゲエ・マガジン』の編集長など歴任するも、思うところあり、1996年帰郷。
以来、鹿児島を拠点に会社経営をしつつ、執筆活動などを続ける。
趣味は、自転車(コルナゴ乗り)と読書、もちろん音楽。
Bloghttp://www.good-neighbors.info/dubbrock
Twitterhttp://twitter.com/dubbrock

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