HENRY
HENRY"JUNJO"LAWES
HENRY
L: COCOA TEA『SWEET LOVE』
R: SANCHEZ『MY SOUND』

 ダラダラ読み物企画『JUST MY IMAGINATION』。久々の更新。今回もダラダラ。

 別項の通り、VP RECORDSの『REGGAE ANTHOLOGY』シリーズから『HENRY "JUNJO" LAWES〜VOLCANO ERUPTION』がリリースされました。なので、今回のテーマは、HENRY "JUNJO" LAWESに。で、HENRY "JUNJO" LAWESですが、長いのでココからはJUNJOと省力表記させて頂きます、スイマセン。

 JUNJOですが、自分が知り合ったのは、彼がライカーズ・アイランドを出所してジャマイカに帰還した後の、ちょうど〈VOLCANO〉を再始動した90年代初頭でした。自分が以前に勤めていた会社で、制作/リリースに携わり始めて間も無い頃でした。

 ジャマイカで〈VOLCANO〉の作品を配給していたSONIC SOUNDSから、「JUNJOの音源をリリースしないか?」と連絡をもらったことがきっかけでした。打診されたのは、再始動後の〈VOLCANO〉の新録音作品ばかりで、ROOTS RADICSやSCIENTISTが参加したものではなかったですけど、それでも自分としてはリリースする理由が十分に揃っていたいたこともあって、その中からCOCOA TEAの『SWEET LOVE』、SANCHEZの『MY SOUND』の2作品をリリースすることにしました。

 で、JUNJOと直接知り合うと言うか、直接話すようになるのは、それらの作品をリリースした時期から少し後になってからでした。当初は、SONIC SOUNDSや関係先の担当者を通じての間接的なやり取りでしたが、ある時期から直接話すようになりました。それは、そうした担当者が自分の連絡先を勝手にJUNJOに教えたことがきっかけでした。まっ、自分の連絡先をJUNJOに教えたことは良いとして、困ったのはその教えた電話番号が、自分の勤務先のではなくて、当時の自宅のアパートのものだったことでした。

 で、もっと困ったのは、JUNJOが時差とかを考えず、いつも深夜に電話してきたことでした。彼からすると必ず話せる時間に電話したかったのかもしれませんが、こちらとしては大迷惑。毎回起こされて「んかが・・、一体何時だと思ってるんじゃらすたふぁらい」ばかり。それに加えて、JUNJOはある日に電話してくると、そこから連日連夜続けて掛けてくる癖がありました。その期間はずっと寝不足状態です。で、さらに困ったのが、話す内容のほとんどが意味不明だったり、話した内容の繰り返しで、とにかく支離滅裂だったこと。自分が寝ぼけていたのもあったかもしれませんが、実のある話をした記憶はほとんどありません。で、そうした“電話攻撃”を受けて、なぜ関係先が自分の連絡先をJUNJOに教えたのか、その理由が分かった気がしていました。

 ただ、こう書くと、JUNJOがただイカれていたように思われてしまうかもしれませんが、電話でのJUNJOはいつもクールでした。ジャマイカの音楽関係者に多い、大声で話しまくるタイプではなくて、小声で落ち着いて話す人でした。沈黙も多く、聴き取れない言葉も多かったです。ジョークも笑った声も聞いた記憶はないです。プライヴェートな話もしない人で、ベタベタした人ではなかったです。支離滅裂だったのはイカれていたからではなくて、その会話がいつも禅問答のような難解だったからでした。知的であったかはわかりませんが、知性を感じさせる人でした。そして、その支離滅裂な内容と同じぐらい困ったのは、電話であってもJUNJOが自分に与える独特の緊張感でした。決して電話の時間とか寝不足だけに困ったわけではなかったです。

 で、そうしたJUNJOからの“電話攻撃”の悩みをJUNJOを知人達に話すと、「誰も奴のコトは分からん」とその通りな回答で見放されました。ただ、嫌ではなかったです。そうした“電話攻撃”が終わると、いつも「あー、困った人だ」と思いつつも、「あのJUNJOが俺に電話してきたぜ。俺があのJUNJOを独占したんだぜ」とボロ・アポートで一人で悦になっていたものでした。若かったです。

 それと、困ったと言えば、電話だけではなく、ある時には突然JUNJOから〈VOLCANO〉の膨大なカタログのマスター・コピーが一方的に送られてきたこともありました。「何コレ?」と電話してみたら、いつもの小声で「届いたか? よし、金払え。何万ドルだ」と言われて、ただ困惑したこともありました。

 そうした“電話攻撃”とかを経て、初めて直接会う機会がありました。約束した場所は、ジャマイカのSONIC SOUNDSでした。ただ、約束した時間になってもJUNJOはなかなか現れませんでした。それはジャマイカではよくあるコトです。で、数時間待ち続けていたら、建物の中からJUNJOが駐車場に入って来たのが確認できました。やや緊張しつつも、「あー、やっと来た。会えるぞ」とそのまま建物の中で待機していたのですが、いくら待ってもJUNJOは建物内には入って来ません。

 なので、自分から、駐車場に立っていたJUNJOのところまで行ったのですが、挨拶をしてもチラっと見ただけで無視されました。「俺ですよ」と続けても、「だからどーした?」みたいな態度をされました。なので、「そっちが『会いたい』って言うからずっと待ってたのに、そりゃねぇーぜ」と、自分も苛立って建物に戻ることにしました。若かったです。

 すると、しばらくすると別の人が「オイ、JUNJOがお前を呼んでるぜ」と言うので、「面倒臭い人だよな〜」とまた駐車場に行って「何っ?」と言うと、ただ自分の車に乗っていた女の子を差して、「俺の娘だ」と一言。で、言われるまま見てみたら、とっても可愛い女の子だったので、「へー、可愛いっすね〜」とか言ったら、サングラスをかけたまま言葉もなく、ただ笑っていました。スゴい良い笑顔でした。

 JUNJOの笑った顔を直接見たのはその時だけでした。で、その笑顔の後からはまた無視されました。そして、気付いたらJUNJOはその場から居なくなっていました。JUNJOと直接会ったのはその時が最後でした。

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ライカーズ・アイランドから帰還後のHENRY "JUNJO" LAWES

 その後に、JUNJOが亡くなることとなるロンドンからも何度か電話がありました。JUNJOはGREENSLEEVESを作品のリリース元としていたこともあったりして、頻繁にロンドンに行っていました。以前と変わらず、変な時間の変な電話ばかりでした。

 JUNJOの突然の訃報には驚きましたし、哀しみもありました。ただ、同時にどこか感心もしてしまいました。その死に様は、ある意味JUNJOらしいものでした。華やかで、猥雑で、ガンジャとジャークと火薬の香りが入り混じった、まるで映画のような「80年代ダンスホール」の世界の主役らしい最期でした。死に方もJUNJOで〈VOLCANO〉で、そのあまりの「らしさ」と見事なプロデュース/仕事ぶりに、不適切だとは知りつつも強く惹かれた部分もありました。そして、「もう電話は掛かってこないんだ・・・」と、何かが終わってしまったような気持ちにもなりました。


 結局、振り返るとJUNJOでした。

 BOB MARLEYやJIMMY CLIFFぐらいしか知らなかった自分を、レゲエに、ダンスホールに引きずり込んだのもJUNJOでした。彼がプロデュースしたCOCOA TEAやBARRINGTON LEVYとかの作品が自分にとってのホントの意味でのレゲエとの出会いでした。それを入口にレゲエに踏み込むことが出来ました。

 そうした自分が、CDや作品をリリースできる会社で、次第にレゲエに携わることになったのは自然な流れでした。そうした中で直接JUNJOと接することができたり、彼の作品をリリースできたことは幸運だったとも思います。

 で、そうした会社を離れ、その「次」が見つからない時間が一年ありました。失って分かったのは自分がレゲエが好きで、レゲエの仕事をしたいというコト。ただ、それをやれる環境も機会も見つけられないでいました。悶々と不安と怠惰が繰り返される毎日でした。自信も何もなかったから人と会うのも嫌でした。そんな自分に連絡をくれる人は限られていて、JUNJOもその数少ない一人でした。

 曜日も時間も関係無く、人と接することもほとんどなくなっていた自分には少し有り難い電話でもありました。ただ、いつも「何も出来ない自分にどうしてJUNJOは電話してくるんだろ? もうレコード会社にはいないし、多分期待しているだろう契約とかも出来ないし、お金も払えないのに。今までだって自分のお金なんかじゃなかったんだよ。他のレコード会社の人とかに電話すればいいのに」と思っていました。そうしたコトはJUNJOには何回も伝えました。それでも、またその翌日には電話してきました。

 そうやって、JUNJOの“電話攻撃”は以前と同じように自分を困らせましたが、以前と違うのは、その電話がその通りの内容ではなくても、「いつになったらお前は動き出すんだ?」「何を悶々としてるんだ?」と自分を突き上げてくるような気持ちにさせたコトでした。JUNJOからの意味不明の電話に、自分なりに意味を付けたくなるようになっていくのでした。

 ただ、ずっと「会社」という環境にいて、何も自分一人でやったことのなかった自分は、良い年した大人だったのに、子供のように無力で、無知で、何をどうして良いかが分かりませんでした。「どっかの会社に潜り込もうか・・、いやいや、そんな気は無いな・・」と思う時もあれば、「どっかの会社で好き勝手やらしてくれんかな・・」と泣き言や甘ったれたコトを思う感じでした。

 で、JUNJOはそんな自分に連絡したり何なりした生活をしていた時に突然死んでしまいます。そのあまりに「らしい」死に方で。最期までJUNJOらしく、そのままでした。で、それによって色々とまた考えさせられて、自分なりに勝手に想像しました。「らしく生きなきゃ」と、「そのままに」と。

 自分がそこから動き出していくには、色々と複数の理由や偶然が存在していまして、JUNJOのコトだけが理由ではないのですが、それが一つの大きなには理由には違いないです。ある意味、無計画で無頓着なままに、「とっととレゲエの仕事に復帰しよ」「自分のやりたいコトを少しでもらしくやろか」と動き出し、「とは言ってもな」と不安に苛まれた時でも、「まっ、JUNJOだってこんなもんだったろ」と勝手に妄想して気持ちを無理矢理にでも維持していた気がします。

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 そして、動き出した時に、出会ったのがMIGHTY CROWNでした。その出会いが『TRIBUTE TO VOLCANO』になって、そのリリースとかをするために、リリース元となってくれたビクターさんから「法人化してくれないと契約出来ない」と言われて会社を作ることになって、MIGHTY CROWNともビクターさんとも現在につながる関係がスタートした感じです。で、会社を作る動きをしているタイミングでジャマイカに飛んだら、紆余曲折あって、帰り道のニューヨークでVP RECORDSに行くことになって、「日本代理店をやってよ」と言われて、それも現在まで続いていくことになる感じです。

 自分の中では、以前の会社勤め時代が「子供時代」。自分で始めてからが「大人時代」。その境目の無職時代が転換期でした。で、その境目の大きな出来事がJUNJOの死と、MIGHTY CROWNとの出会い。で、今から思うと、子供時代の大切なJUNJOと〈VOLCANO〉を、新たに知り合ったMIGHTY CROWNと共に『TRIBUTE TO VOLCANO』を出すことで、なんか大人になれた気もしてます。で、大人の自分がやらないといけないのは、そうやって自分が好きになったレゲエとか、そのカルチャーをジャマイカから日本へというその距離もだけど、時代の中で受け継いで伝えていくことなんじゃないかな?、とも。新しい出会いや現在を生きる仲間達とともに、受け継いでいくことなんじゃないかな?、と。あのタイミンクでVP RECORDSと出会ったのも結局はそういう意味なんじゃないかな、と。全部想像と妄想とコジツケと後付けです。でも、なんかそんな気がしてます。そして、自分にとっては全てのきっかけはJUNJOだったか、と。 

 もう、JUNJOから電話が掛かってこないは知ってますし、掛かってきたらそれも困るんですけど、なんか現在なら話せるかな、と思ったりもしてます。あの時のSONIC SOUNDSの駐車場で相手にされなかったのも、自分が子供だったから。JUNJOからしたら、一見して判断の出来る足らない子供だったんだと思います。だから、子供しか紹介してくれなかったんです、きっと。

 なんか子供時代よりも大人になってからの方が長くなったし、そろそろJUNJOの亡くなった年齢と変わらないですし(VP RECORDSの資料では60年生まれだけど、もっと前に生まれていると思ってます)、現在なら少しはJUNJOと話せる気もしてます。自分もあの時のJUNJOと同じように意味不明で支離滅裂な話ばっかするようになっています。でも、自分には理解出来るんです。

 有り難う、JUNJO。

八幡浩司(24×7 RECORDS., INC.)

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